世の中とは、時に残酷で、時に妖しくわたしたちを快楽で包んでくれる。不思議な空間。 しかし、恋愛においては現実とファンタジーの区別をしっかりとつけておかないと生きていけないのである。 (…少なくとも、私はもう傷付きたくないから。) *恋愛現実視少女* 今日も日の本の国に朝日が昇る。 雀の群れに混じったメジロも、烏も、野良猫も目を覚ましている中、窓から陽がさしてもなお起きぬ少女が…そこには居た。 「っくあぁ…ッ」 (おはようございます。…いや。眠いわ) まぶた、お前はネオジム磁石か? ぐぎぎ、目が開かない。 艶やかな黒髪を散らし布団の中で微動だにしないその少女は、今正に布団の中で己の軀の『眠たいコール』と格闘していt… (あ、これは無理だ。うん。…まあきっとまだ早いでしょう、そうに違いない) 急かすように明るくなり始める部屋の中、再び少女は意識を手放そうとしていた。 しかし。 「しおなーっ!朝、だ、よー起きろ‼︎」 バサッ グイッ ブラーン 「ちょ…ッ毎日毎日その逆さ吊りやめてよ…寝させてぇ…ていうか酔う…」 勢いよく布団を剥がれ、足を掴んで上へ持ち上げられユッサユッサと揺すぶられる動きで目が覚めてしまった… 頭が冴える感覚。 もう寝直すことはできなさそうだ。 足下で呻く姉と同じ漆黒の艶やかなストレートをミディアムにした少女の妹は不敵にニヤッと笑う。 「ほぉ。今が何時だとお思いで?」 「何時って…ん。…えぇうわぁああぁッ」 時計は無情にも7時を指している。少女___藤宮 紫央奈は中学校からまあまあ離れているために、起きる目安としては6時半くらいなのだ、が。 7時。どう見ても7時。目安に30分も遅れるということはすなわちそういうことだ。 学校に遅れる。 「何故こんな時間になるまでほっておいた!!?」 「え、わたしのせいにするん?」 否、決して妹の、千癒梨(ちゆり)…通称ちぃのせいにしてはいけない。あくまで悪いのは紫央奈である。しかし彼女は焦りで声が大きくなり、そして唐突に下のリビングへと降りていった。 「やれやれ。中学生になってから急に寝起きが悪くなっちゃったんだよなぁ。そろそろ頑張ってもらわないと困るのに。」 そう苦笑するちぃは、背伸びをしながら自分もまた下へと階段を降りて行ったのだった。 「…手のかかる姉だぜ」 「喧しいッ」 その頃紫央奈は俊速で朝ご飯を食べ、かつてない速さで顔を洗い保湿し制服に着替え、そして現在膝まで伸びた髪の毛と格闘していた。 彼女にとってここまで長くなった髪の毛は、多少からかわれることもあるが、一種の宝石のように見えてならない。 (宝石は磨いて当然) なのでいつもは15分以上かけて念入りに、慈しむように梳かすのだ。しかし手触りを確認している暇すら今日はない。空前絶後の時間不足である。 「うあああぁっ」 もう三つ編みの時間はないと悟り、櫛でまとめてゴムを使い高めのひとつ結びにする。時計を見ると……… 「7時50分〜⁉︎⁉︎」流石にもう家を出ないと遅れてしまうだろう。パッとバッグを掴みドアを開け駆け出した。 が、すぐに踵を返し、 「嗚呼いけない、これ忘れてた。」 再びドアを開け玄関口にあった翡翠で出来た二枚貝を手に取る。 とろりとした光をたたえたそれは、両の殻をぴったりと閉じている。御守りのようなもので、不思議なことにある夜の夢の次の日に枕にあったものだ。 あのときは驚いたが、なんとなく惹かれる感じもあって今も肌身離さず持っている。 紫央奈はパッと身を翻し、もう一度ドアから消えていった。 「あ~~…ドア閉め忘れてるし。…しょうが無いなぁ。それにしても…」 (紫央奈ガッコ間に合うかなぁ) そう妹は、ある意味確信を持った思いで姉を見つめていたが。まあそれは、当たらないほうがいいだろう。 *。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・ 近所から溢れる金木犀の香りが清らかに冷たく澄んだ秋の空気に混ざる。紅葉した並木道を風と共に駆けていくその少女は、美少女と言っていい容姿をしていた。 豊かな黒髪がなびき、整った鼻筋、形のいい薄い唇からは歯並びがいい白い歯が覗く。まつ毛はたっぷりと長く、その下に嵌め込まれたさながら黒曜石を磨き抜いたような瞳は優しさの奥にしたたかさを秘めた輝きを持っている。 やや凹凸は少ないものの、珠をのべたように白く柔らかに透きとおりスラリとして儚げな軀付きは、なかなかに妖しく艶やかに、異性同性どちらも魅了している。 淡雪のように白い喉元に光る汗すら、水晶のようで__ しかし今彼女の目は、真剣そのものだった。 (く…間に合ってくれ〜…ッ) 息が切れる。苦しい。が、しかしそんな甘ったれたことを言っている暇ではないのだ…! 細い足首は必死に前へ前へと進もうとする。風向きが変わって向かい風になった風をはらみスカートがひるがえる。 (皆勤賞〜…) 皆勤賞は意外に大事だ。少女の学校では皆勤賞を取ると各教科の成績の3分の1が上がる。彼女は自分の矜持として全教科評定4以上半分5を、いやそれ以上を保っていたい。できないと自分自身が許せないのである。 「紫央奈、今日は遅いな。あと1分もしないうちに鐘鳴るよ。」 時計を見つめ教室の中のクラスメイトがつぶやいた。 正門を駆け抜け、靴を履き替え階段を駆け上がる。 (はあはぁ…嗚呼ーーー〜ッ‼︎‼︎) キーンコーンカーンコーン… 結局、クラスに駆け込むのと同時に鐘が鳴った。 間に合った。 「珍しいね、寝坊なんて?」 「うん…よくわかんないけど、夢を見たような」 まだ先生の来ていないホームルーム前の5分間、紫央奈は前の席の女子、朱子と今朝の紫央奈の話をしていた。 「夢〜?どんな」 「…うまく思い出せない」 「あるある」 難しい顔をする紫央奈にフォローを入れてくれる朱子は別に陽キャでも無く隠キャでもなく、言うなれば中立派なので紫央奈とよく気が合う。 気がつくと紫央奈は朱子をじっと見つめていた。 やや面白そうな気持ちが滲み出ている両目は悪戯っぽく半眼になっており、色素の明るめな黒目がキラリと光っている。 肩より長く伸ばした髪も同じく明るい色をしていて、今日はハーフアップだ。 そして紫央奈より、いや、比べるのも呆れてしまうほど圧倒的にメリハリのある軀付きは…… (…いいや、う…) 高望みしてはいけない。そう分かっている。しかし。 いいな、と思ってしまう紫央奈には罪はなかろう。 「…ねぇ……ぉい、なんかその目こっちの方が悲しくなるんだけど。やめてよ…」 (あ) いけない。つい癖で人間観察を。 (いかんいかん) 気を取り直して朱子の目を見直す。今度は呆れで半眼になっていた。 「ごめんて」 別にいいけど、と朱子は言う。そして、それよりさ、と続ける。なんだろうか。 「最近夢占いが流行ってるらしいね?紫央奈の言葉で思い出したけど。そこらかしこで夢の話してる 今もほら」 「そういえば」 耳を澄ませてみると、昨日の夢は、今朝起きたら、夢に誰が出てきた、 (夢夢夢夢飽きないんかな…) 紫央奈はちょっと周りとずれている意見を持った。 「心の声ダダ漏れてるよ」 「おっと」 紫央奈の癖だ、独り言が多い。直そうとも直せるとも思っていないが、迷惑にならない程度にしたいとは思っている。 「あら~ごめんあそばせつい本当のことを」 「よく一軍から目を付けられないねホント」 きんこんかんこん。そこで鐘が鳴った。 *。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・*。・ 諸々の授業を終え、放課後。 「くふっうふふえ」 司書しかいない図書室から、奇声が聞こえてくる。 ぺらり、ぺらり、分厚い本のページがめくれる。 そこには挿絵なんてひとつもなく、ぎっしりと細かい活字が詰まっていた。そして、その本の周りにも同じような本がうず高く積み上げられている。 どれも平安時代の古典と、歴史についての資料だった。 開かれている本は、源氏物語の、下巻だ。 「__ッ〜〜‼︎」 一つの字も読みこぼすまいと開かれた両目は、けれど熱く潤んでいる。 至福、を絵に描いたような恍惚の表情を浮かべているのは___藤宮紫央奈だった。 司書はいつものことなので温かい目でスルーしているが、はたから見れば奇行とも取られるだろう。あの藤宮紫央奈がおかしい、と騒がれるかもしれない。 だが、紫央奈にとってはそんな些細なこと割とどうでも良かった。 本に、歴史に、古典に溺れていた。特に古典の中でも恋愛のものはたまらなかった。 その時代の文化が好きだった。思想が好きだった。全てが好きだった。憧れだった。 いや別にあそこまでヤバい文化を現代に甦らせたいなど思っていないが、ただその時代の全てを感じ、没入するのが好きなのだ。誰にも迷惑などかけていない。それでいいのだ。無理に布教する気も無し。自分だけで楽しめる、最高の趣味なのだから。 「嗚呼〜〜ッ♡」 最高だ。 気付かぬうちに息が荒くなっている。はあ、はぁ、半開きになった口元からこぼれてくるのは、悶えか、吐息か、はたまた唾液か。全部かもしれない。 愛憎渦巻く雅で艶かしい源氏物語も、下巻ともなってくれば源氏は中年で、昇進もし、恋はだいぶ若者たちの方がメインになって政治の割合が大きい内容になってくる。 「だけど!!」 そこがいい。何がいいのか聞かれても困る、全部いいのだ。読んでみればわかる。こちらに堕ちてくればいい。 少なくともこの学校の中でここまで古典好きな生徒は紫央奈くらいだろう。読みやすくされた漫画だけでは飽き足らず、原典にも手を出している。 貸し出しスペースにあるリクエスト冊子の中の欄はほとんどが紫央奈の名前で埋まっている。 なるべく入荷してくれている司書さんは優しい。 「えへへぁ」 しかし実は、一昨年まではここまで陶酔してはいなかった。そりゃ人並み以上に本好きではいたが、奇声が常に漏れるほどではない。古典も知識は常人並みであった。 (たぶん) たぶん、なのは、気づいてないだけかもしれないからだが、ほぼ確信をもって言える。ここまででは無かった。 こんなに古典に溺れるようになったのは… 俗に言う元彼のせいだ。 「……」 それを思い出すと、途端さっきまでの熱は引き、すぅっっと冷たくなるのを感じる。 (…はぁ、思い出しちった) 窓を見るともう夕暮れになっている。茜色に染まった図書室を見て、そして時計を見て、ようやく紫央奈は重い腰を上げ、本を片付け始めた。