楠木 正成(くすのき まさしげ、旧字体:楠木 正成)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自は諸説あり。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。 元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の1人。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。 生涯 出自 楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村) 自称 建武2年(1335年)8月25日、『法華経』の写経を完了し、奥書に「橘朝臣正成」と自著していることから、遅くともこの時期までには橘氏の後裔を自称していた[原文 1][信頼性要検証]。 河内の土豪説 『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[4][5]。 楠木氏は橘氏の後裔とされる[6]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある[6][7]。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[6]。 また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[8]。 得宗被官・御家人説 得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とする[6][9][10][11]。理由としては、以下の通りである。 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の字(あざ)はない。 鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。 観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年(1285年)に入江荘と深い関係にある北条得宗家の有力被官長崎氏に霜月騒動で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと想定できる[注釈 3]。 『鎌倉将軍家譜』によれば、元享2年(1322年)には、北条高時の命を受けた正成が摂津国の淀川河口に居を据える渡辺党を討ち、次いで紀伊国の安田庄司を殺し、さらに南大和の越智氏を撃滅したという。この際、安田庄司の旧領は正成に与えられた(ただし、史料の正確性は後述のようにかなり低い)。 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている[12]、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる[6]。 網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺は得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったと推定した[13]。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる[9]。 また『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党と並ぶ将軍随兵と記されている[14]。ただし、この楠木氏が正成と同族であるとする根拠は無い。 森田康之助は、弘安8年(1285年)1月29日付の常陸国国府での下文に「(常陸)国司代左近太夫将監橘朝臣」とあり、『楠嘉兵衛本楠木氏系図』には正成の父・正康は左近太夫であると記されているため、何かしら関係がある可能性を示した。
音借りるときは言ってください あ やっぱ言わなくていいよ この前授業で聞いたけど、坂本龍馬の有名な立ち絵に見える小刀、楠木正成モデルなんだって(だから?)