今日も、明日も、その先も、すべてにおいて周りより遅れていることがどれだけ辛いか。 今まで後ろや横にいた人が前に行って私を追い越すことがどれだけ辛いか。 少なくとも、私が感じる辛さは私にしかわかりようがないんですね。 皆が抱える物だったとしてもね。 前に人がいることがつらい? 最前線に立てないのがつらい? どれも違う。 ただ、身近にいたと思っていた人が遠い遠い先に行ってしまうのがどうしようもなく苦しいのだ。 気づいた時には、周りに誰もいない。ただ、追いつけはしないのに止まればさらにおいて行かれるという恐怖やら強迫観念やらで無理やり体を動かす自分だけがいるに違いない。 たとえ、追い求める物が蜃気楼のようなものであったとしても。とっくのとうに、別の道に行っていたとしても。 追いかける以外の生き方を知らないから、ただずっと追いかけるしかなくて。でも、追いかけても追いつけるはずが無くて。 自分で自分を自分の掌の上で躍らせ、自ら身を滅ぼしていく。 ある自分は嘲笑い、またある自分は諦める。しかしどの自分にも言えることは、決して自分に期待をしないということだ。 なぜ、自分に期待する?なぜ、そんな無意味なことをする? 答えはわからない。結局これも、誰かの目を引きたいがための自演なのかもしれない。 自分で自分を騙して行う自演は、自演ではないような気がするが、結局自演だ。 自分でも、何が本当に感じていたことなのかわからない。 生きる価値がなくとも、生きなければならない。死に価値を見出しても、生きなければならない。せめて、普通に生きられている分すべてに感謝すべきなのだろう。 そして、のうのうと生きていることに謝り続けながら、できる限り他の人々の明かりになれ。 薄暗くどよめく闇が、光を生み出すことはできない。明るくなったように思えても、それはその闇に慣れてしまっただけだ。 もう二度と、光には戻れない。戻れば、目がつぶれてしまうから。
あるところに、一人の人がいました。 人は至って普通で、むしろ幸せな方に入るような人間でした。 しかし、ある時どうしようもない程深く傷つきました。 誰かに相談したくても、人にはその勇気がありませんでした。そこで、人は思いました。 「誰かに話せないなら、自分に話せばいい」と。 それから、人はある人物を作りました。 当然、人が二重人格になったわけでも、イマジナリーフレンドを作ったわけでもありません。 人は、自分とは違った自分を作り出しました。 自分なので、あくまで自分の思考の中に存在するだけですが。 初めのうちは、相談をしたり、友達のように話したり、時には自分の意見同士でぶつかり合ったりなど、まるで別の人物として存在するかのように関わっていました。 しかし、それも長くは続きませんでした。 あるとき、その自分は自分を責め始めました。 朝、昼、夜、朝、昼、夜、朝、昼、夜… 来る日も来る日も、責め続けられました。 人は、少し生きるのが嫌になりました。