---煙草売の時計---------------------------------------------------- まだ冬の乾ききった朝を眺める早朝の午前四時。 いつも通りの通りに据えられた煙草を売る小さな店にたたずむ自分がいた。 自分はいつも思う。煙草を売っていても大した金にはならないことを。 暗い朝の静寂を打ち破るようにシャッターを開けると、そこにはいつもの景色が広がっていた。 始発電車も出ていなければ、まだ歩く人は少ない。 店に並んでいる煙草を一箱取り、一本出して口につけた。 白い五十二番。 きらきらとした暗い炎が煙を出して自分に絡みつく。 息を吐くと同時にその煙は自分から離れ、外へといった。 一回ため息をついて、在庫を整理し始めると、さっそく一人のすらりとしたサラリーマンが来た。 少しへ垂れた革靴に年季の入った時計と色褪せたスーツが彼を物語っている。 「いらっしゃい、どれにします?」 すでにこの仕事について早四十七年、もう何も気にすることもなければ、何も考えることもない。 「上の五番で。」と彼は言ったのちに財布を取り出した。 いまだに秒針を刻む時計がどこか懐かしい。 ふと止まった時計を思い出し、その記憶をたどった。 確か、その時計は午後の七時五十七分を指して止まっていた。 「どうぞ、お会計は?」 彼はすっと財布から五十円を出し、自分はそれを受け取り、会計を済ませた。 「毎度あり。」 すっとお辞儀をして駅へさっさと歩く彼を見ながら頬杖をついて、カウンターの前の椅子に座った。 またもう一本煙草をふかし、肺を痛めつけながらゆっくりと煙を吐いた。 冬の白い息と混ざる煙が黙々と天に上っては消えていく。 朝日が昇りながら燃える空を見て、かの頃の自分を思い出す。 まだ自分が十歳の時、日本は戦禍に包まれていた。 空を爆撃機が覆いつくし、バラバラと焼夷弾を放っていった。 赤く燃える炎で覆いつくされた街を背に、自分の家族をおいて一人で逃げ回った。 残骸が流れる河川敷の端の下で頭を抱えてうずくまっていた。 “助けて!!”と響く声が煩く頭の中で反響した。 その時の自分はもう何も考えていなかった。 いや、逃げたかった。ただそこにある恐ろしい現実から逃げたかっただけだった。 何も考えず橋桁の下でうずくまって、響く防空サイレンを片耳に怯えた。 あれから何時間だろうか。 もうわからない。 でも、確かだったのは、町はなくなっていた。何も。 ただ空しく、何も考えられなかった。 “父ちゃん、母ちゃん、どこ?” それしかなかった。 裸足で自分の家へと体を運んだ。 そこには何もなかった。 でも何かあったように見えた。 炭だらけになった体で瓦礫をひっくり返しながら母と父を探す自分がいた。 虚無が包み込んで、何もなかった自分の衝動がそうさせた。 もうあれは自分ではなかった。 まるで写真を見るように思える。 「母ちゃん!!父ちゃん!!」 ずっと叫ぶ。 何もないのを知っているのに… 暫く瓦礫をめくると、そこには変わり果てた何かがあった。 真っ黒で焼けて人の形をした二つの何かが。 それを見て自分は涙が止まらなかった。 「翔ちゃん!!」 隣の麻子おばさんが自分を見つけて、自分を抱き上げた。 “何か”が見えないように。 ただ泣いて、何もわからなかった。 顔がぐしゃぐしゃになりながら衝動を徐にしてただそこで泣いた。 何だろうか。あそこで自分は何を見たのだろうか。 本当は分かっている。でも分かりたくない。 今でも涙が止まらなくなる。 誰もが困ったものには手を差し伸べようとする。 自分が強者であるために。 そしてそのかすかな光が人を蝕む闇へと変わる。 自分はそうだった。みんながかけてくる“かわいそうに”という声が怖かった。 なりたくてなったわけではない。 その言葉で余計に“何か”が鮮明にリフレインしてくる。 それが嫌で仕方なかった。 ただ当たり前が欲しかった。鈍くてもいい、暗くたっていいから当たり前が欲しかっただけだった。 それなのに、過度なスポットライトが飛び交うような会話が絶えず、苦しかった。 みんなそうだったはずだ。 そこで改めて気づく。人類とは欲にまみれた利己主義で、偽善家で、全部“ハリボテ”に過ぎないということを。 再び白い箱から煙草を出してゆっくり煙を味わった。 かすむ背景がゆっくりと目に広がり、鮮明になってゆく。 吐息から流れ出る煙は、なんとも言えないものだった。 昼の十二時。乾ききった冬にもつかの間の暖気が訪れ、活気に満ちる。 近くの学校から昼休みのチャイムが聞こえる。 自分も子供のころは何でもいいから社長になって、家族を助けたかった。 当時は珍しい一人っ子だったから、自分しかいないと思うと、そう思うのは当然だった。 「こんにちは。」 一人の若い男性客が煙草を買いに来た。びっちりと決まったスーツにピカピカの革靴。立派な精工舎の時計を身に着けた人だ。 「いらっしゃい。最近はどうです?何かうまくいきました?」 そう言うと彼は少し考えて、頭を掻いた。 「いいえ。面接に落ちちゃって…ちょっと気分晴らしにたばこをと。」と彼は言いながら。にっこりと笑った。 つられて私も笑うと、「ちょいと待ちな。」といって引き出しを開けた。 「タバコは吸わないほうがいいさ。でも、ここに行ってみな。桝崎さんに言われてと言えば入れてくれるさ。」 そういって、アニキのレストランのパンフレットを出した。 最近開いたばかりで、彼も喜んで私にこれを渡しに来た。 実際行ってみてもおいしい洋食だった。きっと気分も晴れる。 「自分も、吸い始めてこんなにボロボロになっちまったのさ。まだ若いし、せっかくの気分晴らしには煙草よりも暖かい料理の方がいいだろう。」 少し困ったような表情を見せた若い人だったが、すぐににっこりと変わり、パンフレットを手に取り一言言った。 「折角ですし、行ってみます。わざわざありがとうございます。」 「言うまでもないさ。次の面接、受かるといいな。他人事で悪いがね。」 少しにっこりとしていた顔が晴れやかになり、「はい!」と元気な声で言って、お辞儀して料理店へ向かっていった。 また一人、少し幸せの人ができた。 何も意識せず訪れる幸せは温かな光となりすべてを照らし、影を作らずに包み込んでくれる。 そのひと時のどうでもいい話かもしれないことがいつかの何かにつながる。 そういえば、自分が煙草売りになったのはなぜだっただろうか。 思い出せば春、まだ高校の校舎もできていないころ、自分を拾ってくれた麻子おばさんのために働くことにした。 当然、学もなければ、立派な家柄でもない。近くの瓦礫拾いに行って少しのお金をもらって帰ることにした。 そんなある日、瓦礫拾いをしていると、アニキといわれ、親しまれている弱冠二十歳の里崎さんがいた。 二十歳の年のはずなのに、まだ十代に見えることから、アニキなのだそうが、自分にはいまいちアニキと言われてもピンとこなかった。 そのアニキが、煙草を吸うことが好きで、いけないと分かっていながらもたまにアニキと一緒に裏で一服していたことがある。 そこでのとりとめのない話が自分は好きだった。 あの頃はまだ煙草のにおいは嫌いだった。今でもそうだが、今と昔では何かが違う。 もう嗅ぎなれた、祖父の家のナフタレンの防虫剤のにおいも煙草のにおいも今では同じような存在だ。 そこで自分は当たり前のすばらしさを感じた。 十七の年でもまだむせながら煙草を吹かしたあの頃が懐かしい。 それが好きで自分はタバコ屋を始めることにした。 ちょうどアニキが持っていた掘っ立て小屋に、お手製の雑な看板を立て、近くの煙草売場だった場所から拾った煙草を並べて商売を始めた。 もちろん、そんなことを聞いた麻子おばさんは顔面をひっぱたいて自分を叱ったが、それでも自分は金になればと始めた。 そして始めた商売は、現場のみんなにはもちろん、サラリーマンにも需要があったようで、大繁盛だった。 というのも、そこらへんでただで拾ったきれいな煙草を五本ごとに分けて格安で売ったわけだから、そりゃあ売り上げが利益になるいい仕事だった。 そして、そこでのとりとめのない話が自分の大好物だった。 ちなみに、稼いだ金は八割はおばさんに後の二割は店のために取っておいた。 数年間、そこで煙草屋を続けた。そのころには建て替えるだけの十分な費用もたまったから、掘っ立て小屋を新しくした。 そのころには駅もできて、町はだんだんと都会になっていった。 気づけばそこは別の町だった。 そんなことで自分は煙草売りを始めた。 そういうわけだった。 時間はすでに七時を過ぎ、街灯がともり始めて、夜の街に変わりつつある東京を眺めた。 特に立派な商店街ではないが、きらきらとにぎわっている様子がここから見える。 見ていてほっとする。 帰宅ラッシュで多くのサラリーマンが帰っていく様子をただ眺めていると、 彼女を連れた男性が来た。 「すみません、白の五十二番を下さいな。」 帽子をかぶった彼はそう言って、おしゃれに決めたカバンから財布を取り出した。 彼女と一緒に話している間に、たばこを取り出し、彼にそっと渡した。 すると、そっとお金を出してきたので、ささっと片づけた。 思えば、自分にもこんな日があった。 そして、自分はお釣りを渡すと、彼は帽子をとってお辞儀した。 その時だった。 紛れもない自分の若かりし姿が目の前に広がっていた。 彼女も微笑んで、何かを言った。 彼の左手の時計は七時五十七分を指した時計だった。 そして、その煙草をもって“彼ら”はゆっくりと向こうへ歩いていった。 瞬きをすると、そこにその二人はいなかった。 慌ててあの頃の時計を出すと時計の時間はまた刻み始めた。 言葉を失い、自分はただその時計の動く様子に涙した。 ああ、ありがとう。 -----------------------------------fin----------------------------------- 最後までお読みいただきありがとうございました。 この小説では、煙草は娯楽の象徴として描かれ、その煙草を提供する煙草売りの様子を描きました。 戦争が始まってから、主人公が今生きてるまでの回想の時間を実際の時間の進みと照らし合わせるととで、更なる時間の重なり合いを出しました。また、朝焼けの焼けた空から始まる東京大空襲で感じたことを一人称視点で語り、現実性を引き出しました。 その中で、時計とは、大きな役割を担っていて、最後のシーンで時計が動き始めるまでの時間はすべて回想。すなわち、まだ動かない時間の中でとらわれる主人公の様子を描き、動き出した瞬間、また新しい一秒が、時計によって刻まれるという流れが組まれています。 まさに、朝の“焼けた空”から始まり、夜の“活気”に包まれて終わる言いまとまり方になったかなと思います。 ちなみに、最後の二人は時計が動き出すことを事前に伝えるための使者、もちろん幽霊です。しかし、男の方は今も生きている人。つまり…?