下の話は野良猫は宇宙を目指したのコメントにある短編小説です。 本家様は下のURLから↓ https://www.youtube.com/watch?v=CPpMnyvBWdM
野良猫は宇宙を目指した 物心ついた時には既に生きることに必死になっていた。 ワタシはニンゲンたちの言うところの、所謂「野良猫」というやつらしかった。 身を寄せ合う家族も仲間も無く、ニンゲンの捨てたゴミを漁りながら、ニンゲンの作り上げた灰色の世界の片隅で一日一日を必死に生き抜いていた。 そんな生活が終わりを告げたのは、ある冬のことだ。 その日はなぜか道端にもゴミ箱にも食料になるようなものが転がっておらず、また夜の寒さはワタシの骨に張り付いたような毛皮だけでは到底防ぎ切れるものではなかったから、少しでも暖かいようにとビルとビルの隙間の路地で体を丸めて震えていた。 ふと、目の前に影が落ちた。 顔を上げたワタシが目にしたのは、よれた上着を羽織り、無造作に無精ひげを生やした、ともすれば浮浪者にすら見間違えてしまいそうな男が、四角い枠に収まった二つのガラス板を通じてワタシを眺めている姿だった。 (ニンゲンだ) ワタシは反射的にその場を飛び退いた。無論野生の本能によるものでもあったが、一番の理由は母親であった。もう記憶も定かでなく、果たしてその猫が自分の母親だったのかすら確かではない。だが、なんにしろ幼少期のワタシには母と呼べる存在が確かにいたのだ。彼女に教わったのは、この世界での生き方と食べ物の見つけ方、そしてニンゲンの恐ろしさだった。 男の一挙手一投足を見逃すまいと目を光らせ、警戒心を滲ませるように低く唸るワタシを見て男が弱ったように眉を顰めた。 「やるよ」 男がそう呟いて、徐に何か白いものをワタシの目の前に置いた。 「ちゃんと食えよ」 男の姿が路地から消える。すぐさま雑踏の中に紛れて見えなくなった。 ワタシはといえば、目の前のなんともうまそうな匂いのする白い塊から目が離せないでいた。匂いから食べられる物であることはわかっていたし、何かを食べないと命が危ないということは、ワタシ自身が誰よりも知っていた。 恐る恐る歯を立てると、白い塊は噛んだところからポロリと崩れた。白い塊だと思っていた物は、どうやら白い粒が集まってできた物らしかった。それが米という名前だと知ったのはかなり後になってからである。 男は次の日も現れた。次の次の日も現れた。そのまた次の日にも現れた。十日が経った頃、ワタシは男のあとをついていってみようと思い立った。産まれてから一年ほどは経っていたとはいえ、まだ思慮浅く単純だったワタシは男がどこかしらに食べ物を大量に抱え込んでいるのではないかと考えたのだ。あとをつけてその場所を突き止め、あわよくばその秘密の食料を全て自分だけのものにしてやろう、などと画策していた。 計画は驚くほどスムーズに進んだ。何せワタシの住んでいた町では野良の猫など珍しいものではなかったから、ニンゲンに紛れて歩いていてもなんの疑念も抱かれなかったのだ。 誤算は二つあった。一つは案外簡単に男に見つかってしまったこと。二つ目は男が、ワタシが飼われたがっていると思い込んだことである。 ワタシ自身、心のどこかで男のことを信用してしまっていたのかも知れない。ワタシが野良猫から所謂「飼い猫」に転身し、新たに名前を貰ったのはその日のうちのことだった。 ワタシが男の家に上がり込んだ夜、出された食事を一心不乱にかきこむワタシを見ながら、男が笑いながら色々なことを話してくれた。 男は宇宙についての研究を生業にしていることや、その仕事を志した理由など。 「子供の頃、生き物は死んだら星になるって信じてたんだ。宇宙飛行士になるのが夢だった。その頃飼ってた猫が死んで、寂しくてもう一回会いたかったからなんだが」 男はそう言って眉を下げてはにかんだ。ワタシにつけた名前は昔飼っていた猫から取ったらしい。 それから男は嬉しそうに宇宙についての解説を始めた。猫が相手でも、誰かに話せることが心底楽しいとでも言うように。今思えば、彼はあの時童心にかえっていたのかも知れない。 男の仕事は外に出なくともできる類いのものらしく、男は昼間にももっぱら家にいることが多かった。朝、男と同じ頃に起き、三度の食事を経て眠りにつく。その間、男の顔を見ないことはなかった。 そんな生活が何年か続いた。 もうすっかり鈍ってしまったワタシの野生の勘が、男はもう先が長くないと告げたのは十五年が経とうとした頃だった。ある日、男は突然腹痛を訴え、呻きながら救急車とやらに運ばれていった。ワタシは卒爾の事態に状況が飲み込めず目を白黒とさせるばかりで、何をするでもなく、男が戻ってくるまで、ひとりで過ごしていた。数日が経ち、男が帰ってきた。ワタシを一目見るなり泣きそうな顔をしながらワタシを抱き上げた男の、たった数日でここまで変わるものかと驚くほどに痩せこけた体を見て、男の寿命がもう幾ばくもないことを悟った。後から知ったことだが、男はその時既に大病を患っていたらしかった。それでも、望みの薄い手術のために入院をするより、残された時間をワタシと家で過ごしたいと男は強く医者に訴えたらしい。 男は日に日に痩せていった。 食事を摂るのも億劫だといった様子だった。 ある日を境に、男は仕切りに、俺が死んだら次はもっといい人に飼って貰えよと言うようになった。 ある日から、男はベッドの上から起き上がれなくなった。 その日から、ワタシも男のベッドの上を動こうとしなかった。 ワタシを見ると、泣きながら、もっと長くお前と暮らしたかったなぁと呟く男を見るたびに、男の体にすり寄って応えた。 それから数日。 ある朝、ワタシが目を覚ますと男は動かなくなっていた。 ワタシはベッドの上から動こうとはしなかった。男はもう死んでしまったのだと頭では理解していても、どうしても彼の亡骸の傍らを離れようとは思えなかった。 どれくらいそうしていただろうか。もう外は日が沈みきっていた。 そういえば、と。十五年前のあの日、男が嬉しげに語っていた話を思い出した。 『生き物は死んだら星になるって信じてたんだ』 あの日の男の笑顔が脳裏に蘇る。 星とは宇宙にある丸い塊で、宇宙とは空の向こう側にある、とてつもなく広い世界なのだという。 彼はもう星になってしまったのだろうか。 ベッドの上から窓へと目をやった。黒いベールの上に小ぶりの真珠でも散りばめたように、無数の星が輝いていた。 飼い主がいなくなってしまったから、ワタシは最早飼い猫ではない。かといって、新たに飼い主を探す気があるのか、と聞かれれば答えはノーになるだろう。彼のそばでいられるなら、ワタシは野良猫のままでいい。 (ワタシは依然『野良猫』だ) そう宣言するかのように、夜空に広がる数多の輝きを見つめながら、ニャー、と一つ声を上げた。