放送原稿:句読点抜きで4213文字 いや、まずですね、電車の中で学生が大声で喋ったり床に座ったり荷物を広げたりして迷惑行為を繰り返すっていうこの現象について、誰もちゃんと指摘しないから本人たちは気づいてないかもしれないんですけど、そもそもその行動って「公共の場における最低限のマナーすら守れない人間が、他人の迷惑も考えずに好き勝手やっている」っていう話でして、まず最初に言いたいのはですね、社会っていうのは自分だけが心地よければいいっていうゲームじゃなくて、お互いにストレスをかけずに共存するっていうルールの中で成り立ってるわけで、で、電車っていうのは言うまでもなく公共交通機関なわけですから、そこに乗ってる人たちっていうのは別に友達でも家族でもない、完全なる他人であり、他人が同じ空間にいるっていう前提でお互いに「音を出さない」「スペースを広く取らない」「動作を慎む」みたいな、言ってみれば暗黙の了解でできている繊細な秩序の上に成り立ってるんですよね、で、そんな空間で大声で笑い合ったり、動画を音出しで再生したり、ドア前を占拠したり、床に座り込んでゲームを始めたりする学生がいると、当然ながら周囲の人は「なんだこいつら」って思うわけで、それが不快感に繋がり、イライラになり、ストレスとなって社会全体の空気を悪くしていくっていう、いわばマナー違反っていうのは単なる一回の迷惑行為にとどまらず、「公共空間の秩序そのものを揺るがすウイルス」みたいなものなんですよ、で、そういう迷惑行為をする学生って基本的に「周りが注意しないから自分は正しい」とか、「他の人もやってるから問題ない」っていう、極めて思考停止状態に陥ってるんですけど、それって要するに「他人の目線で物事を考える能力が決定的に欠如している」ということの証左であって、こういう想像力のなさって、実は教育の問題でもあるんですよね、例えば最近の学校教育では「個性を大切にしよう」とか「のびのび育てよう」とか、そういうことばっかり強調されていて、「他人の立場に立って考える」とか「社会における自分の役割を自覚する」みたいな指導が軽視されていることが非常に多くて、結果として「自分だけが快適であれば他人なんてどうでもいい」っていう思考が当たり前になってるわけですよ、で、さらに言うとそれを止められない周囲の大人たちにも問題があって、「注意すると逆ギレされる」とか「今の子は怖いから黙っておこう」とか、結局誰も何も言わないからそういう迷惑学生が調子に乗るという構図ができあがってるわけで、これってある意味「社会の敗北」なんですよね、つまり公共の場における最低限のマナーすら守らせることができない社会って、もはや自浄作用を失った機能不全状態に近くて、特に電車っていうのは、言ってしまえば「社会の縮図」なんです。 そこでのふるまいにその人の常識とか品性とかがすべて表れると言っても過言じゃないのに、そういう場所で迷惑行為を平然と行う学生がいるってことは、その時点でもう教育とか家庭とか社会システム全体が機能していない証拠なわけで、そしてそういう学生が将来社会に出た時に「会議中にスマホいじる」とか「上司の話を聞かずに寝る」とか、そういう非常識な行動をとっても誰も驚かなくなっていくという未来が目に見えていて、つまり電車内の迷惑行為っていうのは単なるマナー違反ではなく、「未来の社会人の資質の低下を象徴する前兆」だというふうに捉えるべきなんですよね、だからこそ今こそ大人がちゃんと注意して、学校がきちんと指導して、親が家庭で教えて、社会全体で「公共空間では他人のことを思いやるのが当たり前なんだよ」っていう価値観を叩き込む必要があるし、ぶっちゃけそれができないならもう「電車マナー検定」でも作って、一定以上の点数が取れない人は電車に乗れませんっていうルールを作るしかないと思うんですけど、でもそんなことを言うと「人権侵害だ」とか「差別だ」とか言い出す人が必ず出てくるので結局は何も変わらず、今後も電車の中では学生たちが大声で騒ぎ、床に座り、通路をふさぎ、動画を音出しで再生し続けるという地獄のような日常が続いていくという、そんな未来が約束されている今の日本の公共マナーのレベルって、正直言ってかなり末期的だと思うんですよね。で、ですね、さっきまでの話を踏まえた上で、「じゃあなぜ日本はここまで電車内のマナーが崩壊したのか?」という問いに対して、歴史的視点から見ていくと、実はこれは戦後教育のある種の副作用として現れている部分があって、たとえば高度経済成長期には「集団での協調性」とか「規律正しい行動」っていうのがものすごく重視されていた時代だったわけですが、その反動として90年代以降になると「子どもの自主性を重んじる教育」とか「個を尊重する社会」みたいなスローガンが前面に出てきて、それ自体はまあ理想としては間違ってないんですけど、問題はその運用にあって、「個を大切にしましょう」という言葉が、なぜか「他人に配慮しなくていい」という免罪符にすり替わってしまって、それに伴って親のしつけも学校の指導も「叱らない子育て」とか「褒めて伸ばす教育」とかが流行り出した結果、何が生まれたかっていうと、「自分を中心に世界が回ってる」と無意識に思い込んでる子どもたちなんですよね。 で、そのまま成長した学生が、思春期特有の万能感とSNSで得た承認欲求を爆発させながら公共空間で無自覚な迷惑行為をするという、ものすごく予測可能で、ものすごく誰も止めようとしなかった成り行きの果てに、今の電車内の惨状があるわけですけど、そこに対して社会が「まあ学生だから仕方ないよね」とか「昔もそういう時期あったし」みたいな妙な寛容さを発揮して、何も対処しないという空気が広がっている時点で、これはもう「社会全体で公共空間の価値を放棄してる」っていう話で、要するに「マナーを守る人だけが損をして、守らない人が得をする」っていう歪んだインセンティブ構造になっていて、それってもはや自由でも寛容でもなくて、ただの無秩序であり、そしてその無秩序を誰も是正しようとしない社会って、言ってしまえば「緩慢な崩壊を選び続けている国家」なんですよ、で、ここで「じゃあ海外ではどうなのか」って話になると、たとえばシンガポールでは電車の中での飲食や騒音行為に対しては罰金制度がしっかり整備されていて、違反者には容赦なく制裁が下されるわけで、そういう制度があるからこそ人々も秩序を守るし、公共空間の快適さが維持されているんですが、日本の場合はどうかというと、「注意する人がいない」「罰則がない」「ルールはあるが形骸化している」という三拍子揃った状態で、結局は「善意と自己判断に頼るしかない」っていう、極めて脆弱なマナー構造に依存してるわけで、その結果どうなるかっていうと、要するに「声の大きい人間だけがのさばる」っていう、民主主義の最悪の悪用例みたいな状況が、日常の電車の中で発生しているわけです、そしてこの問題がより深刻なのは、「その迷惑行為が日常化している」ってことなんですよ、つまり、昔であれば「一部の不良学生の迷惑行為」だったものが、今では「ふつうの中学生・高校生が日常的に行っている行動」になってしまっていて、要するに「迷惑行為という自覚がないまま繰り返される反復」っていう、これが最も恐ろしいマナー崩壊の形態であり、そこには悪意すらない、あるのはただ「常識の不在」だけであり、だからこそ誰も責任を取らないし、誰も止めないし、ただひたすらに空気が悪くなるだけの空間が量産されていくという、これはもうある種の公害だと思うんですよね。 で、さらに恐ろしいのは、そういう学生たちが「迷惑行為によって得られる快感」に気づき始めることなんですよ、つまり「他人の迷惑を顧みずに自分の好きなことをする自由」が「自分のアイデンティティ」であると誤解してしまったときに、人はマナーを守る理由を完全に失うわけで、そうなるともうその人にとっての「正義」は「他人の迷惑<自分の快楽」っていう構造になっていて、そうなってしまった人間を更生させるのは極めて困難ですし、それが一人ではなく、集団の中で強化されることで「マナー違反がカッコいい」「電車内で騒げる自分は強い」という謎の価値観が流布し、それがTikTokやインスタの「バズり動画」として消費されていく構造までできあがってしまった今、正直言って教育とかモラルだけでこの状況を改善するのは不可能に近くて、で、何が問題かって、こういう現状を見てもなお「まあ若者はそんなもんでしょ」と諦める大人が多数派であることなんですよ、そうやって「面倒だから関わらない」「自分には関係ない」という態度を取ることが、結果的に「迷惑行為を放置する社会」を成立させてしまっているわけで、それって「誰も火を消さないまま山火事が拡大してる」ようなもので、今の日本の公共空間におけるマナー問題ってまさにそれなんですよね、で、結局のところ、迷惑行為を止める最も効果的な手段って「その場でしっかりと指摘して教育すること」なんですけど、それをやると「逆ギレされる」「撮影されてSNSで晒される」っていうリスクが高すぎて誰もやりたがらないわけで、つまり社会が「正義のコスト」を高くしすぎた結果、誰も正義を実行しなくなった、という本末転倒な構造になっていることに、多くの人が気づいていないのが一番の問題だと思うんですよね。 それで、結局のところ何が言いたいかっていうと、電車内で迷惑行為を繰り返す学生たちが存在し、それを誰も注意せず。はっはっはっはっは。教育も家庭も放置し、鉄道会社も何もしないという状況を放っておく限りなんですね、この国は今後も「マナーを守る人間ほどストレスを抱え、マナーを破る人間ほど自由に振る舞える」という歪んだ構造の中で、善意が損をし悪意が得をするという最悪の空気を蔓延させながら、誰もが「この国で生きることは不快とストレスに耐えることなんだ」みたいな精神構造に陥り、その結果として国のイメージはダウンして、若者の他者理解力や社会性は欠如し、はい、マナーが守れない人間が増えていく。僕はそういう人の相手したくない。だって、そこに不快感がある自分がいたから。社会はさらに分断され、そしてそれを見てもなお誰も声を上げず、誰も止めず、ただ「しょうがない」と諦め続けることによって、気づいた頃にはもう、あのね、「公共」という言葉自体が死語になっている、そんな社会になるんじゃないかって思ったりするんですよね。うーん、すみません、もうこれぐらいしか特に面白いこと言えないんで、終わりにさせていただきます、はい。ありがとうございました!
Coefont:「ひろゆき」(音声は速く、高くしています) 今回は、鐵道でのマナーについての話をしていただきました。どうだったでしょうか。ぜひコメントお願いします! 次回に続く!