福岡レッドフェニックスを長年支える大卒ベテラン一塁手。 1年目08 144試合 打率(552-152).275 27本 85打点 2年目09 144試合 打率(550-132).240 47本 102打点 3年目10 104試合 打率(398-150).376 30本 98打点 4年目11 136試合 打率(508-152).299 15本 103打点 5年目12 20試合 打率(49-11) .224 2本 10打点 6年目13 109試合 打率(432-102).236 11本 50打点 7年目14 140試合 打率(566-202).356 62本 138打点 8年目15 137試合 打率(536-102).190 18本 52打点 9年目16 121試合 打率(487-121).248 30本 48打点 10年目17 144試合 打率(499-131).262 40本 97打点 11年目18 2試合 打率(7-7) 1.000 3本 9打点 12年目19 出場なし 13年目20 出場なし 14年目21 出場なし 15年目22 出場なし 16年目23 78試合 打率(80-19) .238 3本 11打点 17年目24 82試合 打率(252-55) .218 9本 35打点
17年目40歳 富島高(甲ベ4)-宮崎大学(全優)-フェニックス07D2〜11-MLBメイズ12〜13-フェニックス14〜 【年解説】 富島高校2年生のときにベンチで出場した甲子園大会でベスト4を記録。その後3年生では甲子園出場を果たすことができず宮崎大学へ進学、宮崎大学4年生の時に全国大会を制覇し、自身もベストナインを受賞。 その後フェニックスにドラフト2位指名を受け入団。 1年目から監督による積極起用で全試合フルイニング出場。結果新人王とベストナインを受賞。 2年目は少し打率を落とすも本塁打が47本とキャリアハイ。100打点も達成し2冠王&ベストナインを受賞 3年目はフルイニング出場を途切れさせるも、104試合で打率.376を打ち30本塁打。規定到達はならずシーズン序盤の怪我が無ければ3冠王もあった。結果2冠王&ベストナインを二年連続(3年連続)受賞 4年目は136試合に出場。この年はチームのための安打が増え、殊勲打も増えた。結果15本塁打ながら100打点に到達。打点王とベストナインを3年連続(4年連続)受賞 メジャー挑戦を表明し、メイズに入団。 5年目はマイナーでの出場がほとんどで、メジャーでは20試合の出場にとどまるも2本塁打を放った。 6年目は109試合に出場するも三振が多く、アウトローのスライダーを必ず空振りすることから「アウトでアウトのホタニ」と揶揄された。結果は11本塁打50打点と助っ人としては物足りない成績で日本への帰国を表明し、すぐフェニックスへの入団が決まった。 7年目は140試合で62本塁打と当時の日本記録を超える本塁打を放ち、結果2冠王を獲得(打率で.398の選手が居り3冠王を逃す)(ベストナイン、MVP) 8年目は137試合に出場するも突然の2番起用や2塁コンバートにより不振が続き打率1割9部という成績にはなったが、18本塁打を放った。 9年目は121試合に出場し30本塁打を放つも、この年フェニックス打線は帆谷の孤軍奮闘であり打点がわずか48打点に留まる。(本塁打王、ベストナイン) 10年目は全試合にフルイニング出場し40本塁打を放ってみせた。(ベストナイン、MVP、本塁打王) 11年目は開幕初戦で4打数4安打2本塁打5打点と好調で、3冠王も期待されたが2試合目で頭部死球を受けくも膜下出血が起きるが奇跡的に一命を取り留めるも後遺症が残り普通に歩くのにも半年かかり、リハビリには5年を要すると言われた。 12年目〜15年目は鷹目コーチとのリハビリに専念し、4年の月日をかけついに復活。 16年目は主に代打での出場がメインとなり、78打席を代打で出場し、19安打を放った。 17年目はスタメンで出場し88試合を252打数55安打。9本塁打を放った。(カムバック賞受賞) 【通算】 4916打数1336安打1361試合297本塁打838打点 通算打率.271