優しく出来るのは、余裕があって、選ばれた人にしかできないんだ。俺には誰かを気づかう余裕も、誰かの為に親身になって話を聞ける程、器用じゃない。でも、誰かの為に何かが出来る人は、人の為に”無限の力”が出せるんだと思う。自分の事の様に笑って、その人の為に怒って、その人と寄り添い悲しむ。そして、他人の為に、物理的にも精神的にも支えれる人を、俺は素直に凄いと尊敬する。 優しさは廻る。誰かに優しくすれば、優しい、温かい感情が返ってくる。…それは本当なのか、親が子に良く言う言葉。優しくなって欲しいという理由でそう言うが。俺はそうは思わない。優しく出来るのは、余裕がある。そして、人の心をもつ、選ばれた人のみ。優しくされて当然、優しくされて優しく返すなんておかしい。…世にはそんな人で溢れかえっているからだ。私利私欲にまみれ、人の道を踏み外した者をこぞって追い立てる癖に、自分も踏み外し兼ねない癖に。まるで、自分は違う、悪人じゃ無いんだ。そう言っているようで、醜い。…人間が好きにはなれない。俺は利益で判断する、典型的な人間であり、選ばれた人間じゃない。だから、自己中心的で私利私欲にまみれた人間たちに優しくする気になれない。…優しくしたくも、接して、俺まで醜くなるのも、嫌だ。 「世界の為に」、「この国の為に」、「自分が出来る事を」、「人を助けたい」。言うのは簡単でしょう?自分の承認欲求を満たしたいのか、一時的にでも注目を浴びたいのか。どうせ、身を粉にしてまで人を助けようとする様な人間は、今の時代にいる筈がない。”自分と違う”、”気に食わない”…それを理由で、相手を批判する。単に空理空論で平和を語っても説得力がないというのに。常識や普通は、その人が決める物なのに。そこに土足で入り勝手に批判し、面白半分で数人で袋叩きにするかのように追い詰める。優しくしたいと言いつつ、知らぬ間に加害者に、いつのまにか、相手を傷つける側に。人間は堕ちる所まで堕ちたのだ。 普通ってなんだろう。答えは三つ。一つ目は、強でも弱でも無い、と言う意味。二つ目は今の日本…いや、世界に必要なもの。二つ目は個人個人が持つ常識と言う意味。これは誰かに批判されるべきでは無い。三つめは、世間一般的に・多数派と言う意味だと思う。これと違えば、批判対象と見なす人物は多い。その常識を、疑いもせず、面白がる。一人の訴えはなんの意味もない。一人の悪意は、波紋の様に広がっていく。人間…まるで”醜い”を擬人化した様だ。 「過去にこんな仕打ちを受けて…」、「自分はこんな目に遭った」、「自分は可哀想な奴なんだ」、「被害を受けて、こうなった。」…こう言った発言は、最近のネット内での発言や会話内に稀に見られる言動。仮に自分が被害に遭ったからなんだと言うのか。加害者に言うのはまだ百歩譲って、まだ分かる。同じ空間、同じ出身の者にもそう言って追い詰める。その真意は?自分が可哀想だと認めて欲しい?不幸を同情してもらい、他の見ている人に近くになって欲しい?気に食わないから理由はどうでもいいから難癖付けて批判したい?…これらの発言をする人は、気に食わないから理由はどうでもいいから難癖付けて批判したいといった意図が多い。理由がどうであれ、醜い。気持ちが悪い。恥を知らない、クソ野郎だ。 本当に心に傷を負った。希望が潰えた。誰かに話したいが、涙が邪魔して話せない。そんな人たちが発言をするのに、どれだけの勇気がいるか。そんな人々に扮し、感情を真似して利用し自分を護り、相手を傷つける。魔の者と言われても仕方のない鬼畜の所業。それを世は気づかずに同情して加担し、「自分は正義につく」と態度を変える。こうして嘘や偽物の正義が世を汚していく。本当に傷ついた人との区別がつかず、自分の物差しで勝手に人を判断するからだ。それが許されている。今も利用した鬼畜は生き、本当に傷ついた人は闇を彷徨う。これが、人々の言う正義や善なのだとしたら、俺は人で在りたくない。 ※注意※ リア友は根っからの厨二です()