「お母さん、カステラが食べたい」 私がそんなことを言い出したのは、物心が付いた5歳期の頃だった、貧しかった私の家で、カステラなんて食べられる訳ないのに 「あのね、元子、カステラは大人になってから食べなさい、今は辛抱するのよ、砂糖が一杯で、身体に悪いからね」 お母さんはいつもそうやって私を宥めていた、嗚呼、私がカステラを食べたのはいつ頃だっただろうか、下校路に広がる田んぼを眺めながら項垂れる ああ、6年前のあの頃、私はお母さんと一緒に知らない男の人とカステラを食べていた、今ではその意味が分かるかもしれない、分かりたくは無かった、ただひたすらにカステラを貪り、その甘味に溺れていた自分が恨めしい トンボが空を飛ぶ、大きな音を立て、雲を貫く様に素早く、雲よりも早く移動する お母さんはいつも優しかった、カステラが食べたいと我儘を言っては、その度に卵焼きで我慢してくれと言ってくれた、私はそれを喜んで食べる、そうせざるにはお得ないのだ、その頃の私が恨めしい、どうしてなのだろうか 飛行機から黒い長方形の物体が流れ落ちる、雲を貫き、加速する カステラは甘くて、美味しかった、人生の中で初めて食べたその卵と砂糖とカラメルで出来たそれは、当時の私には余りにも衝撃的で、余りにも悪魔の誘惑のそれと違いが見出せなかった 下校路の燃ゆる畑をぼんやりと眺めながら、転がる自転車のタイヤを回す 結局、カステラを食べる事はなかった、お母さんが数日前に亡くなったからだ、私一人で働くには余りにも幼すぎるのだ、私は指をしゃぶり、皮膚にひんやりと浮かぶ塩味を感じながら、燃える畑にウィンクを交わす 嗚呼、最近は悪い事続きだ、お母さんは死ぬ、智子は足を折る、カステラが食べたかったなァ、と、そう考えているうちに、友人の智子がびっこを引いてやってくる、眼鏡が薄灰色に汚れて、どうしても何かを伝えたい様な顔をしていた 私はそれがおかしくて、おかしくて堪らなかった、智子はいつも真面目で、素っ気ない態度で居るのに、必死に涙を流し、煤に塗れ、鼻水を垂らしている姿がどうもおかしくて堪らなかったのだ 赤い紙を手に持ち、智子は私にドンドンと近寄る、嗚呼、おかしい、おかしい、私は気付けば息が出来なくなっていた、余りにもおかしい、アハハ 「智子ちゃん...そんなところで何をしているの?」 笑い転げながらも私は声を振り絞り、智子に話しかける、智子は泣き崩れ、私の手を握る、赤い紙と共に 「元子...元子ォ....」 温かい、どうしたのだろうか?赤い紙からは生暖かい何かを感じたが、すぐにそれが肌の温かみと似ていると感じた、なんて温かいんだろう 「智子ちゃん、あったかいね」 嗚咽し、もがく智子を抱き締め、私は眠りについた
風邪引いた