「返事をしない部屋」 その部屋には、返事をしてはいけない。 それが、このアパートで最初に教えられた決まりだった。 大学進学を機に、私は古い木造アパートへ引っ越した。 駅から遠く、家賃が異様に安い。築年数は不明。 不動産屋は「昔からあるだけで、特に事故物件じゃないですよ」と笑っていた。 部屋は二階の突き当たり、二〇三号室。 六畳一間に小さなキッチン、風呂は共同。 壁紙は黄ばんでいて、天井にはうっすらと染みが広がっている。 それでも、私には十分だった。 最初の異変は、引っ越して三日目の夜。 午前二時を回った頃、 コン、コン、コン、と壁を叩く音がした。 隣室からだと思った。 「すみません……」 そう声をかけようとして、思い出した。 引っ越し当日、大家が言った言葉を。 ――夜中に、壁やドアを叩かれても、絶対に返事をしないでください。 理由を聞くと、大家は少し言い淀んだあと、 「前の住人が、神経質だったんですよ」とだけ答えた。 私は口をつぐんだ。 コン、コン。 少し強くなる。 無視していると、音は十分ほどで止んだ。 翌朝、隣室を確認した。 二〇二号室は空き部屋だった。 郵便受けにはチラシが詰まり、電気メーターは動いていない。 その夜も、音はした。 今度はドアを叩く音だった。 トン、トン、トン。 ドアスコープを覗こうとして、体が止まる。 覗いたら、目が合う気がした。 「……いません」 そう言いかけて、慌てて口を押さえた。 返事をしてはいけない。 布団に潜り、耳を塞ぐ。 叩く音は、まるで確かめるように、一定のリズムで続いた。 翌日、私は大学の友人にこの話をした。 「それ、絶対ヤバいやつじゃん」 笑いながら言う友人の顔が、少し引きつっていた。 「でもさ、返事しなきゃ何も起きてないんでしょ?」 確かにそうだった。 それから数日、音は毎晩続いた。 壁、ドア、天井。 まるで、部屋の外を何かが回っているようだった。 ある夜、異変が起きた。 叩く音が、私の部屋の中から聞こえた。 コン、コン。 壁ではない。 ドアでもない。 押し入れの、内側。 私は凍りついた。 押し入れは、引っ越してから一度も開けていない。 コン、コン、コン。 内側から、叩いている。 「……誰?」 思わず、声が漏れた。 その瞬間、音が止んだ。 静寂。 そして、押し入れの戸が、ゆっくりと開いた。 中は、真っ暗だった。 ――返事をしてしまった。 心臓が、うるさいほど鳴る。 逃げようとして、足が動かない。 暗闇の奥から、何かが覗いていた。 人の顔に似ている。 でも、目の位置が少しずれている。 口は、笑っているのか、裂けているのかわからない。 「……やっと」 声が、私の声だった。 気づいた。 それは、私にそっくりだった。 「返事、したね」 私の顔をしたそれが、押し入れから這い出してくる。 「ずっと、待ってた」 視界が歪む。 頭の中に、知らない記憶が流れ込んでくる。 この部屋に住んでいた、過去の人たち。 皆、最初は無視した。 でも、いつか必ず返事をした。 そして、入れ替わった。 「大丈夫」 それは、私の口癖だった。 「すぐ、慣れるよ」 次の瞬間、意識が途切れた。 目を覚ますと、朝だった。 布団の中。 押し入れは、閉まっている。 夢だったのかもしれない。 そう思いながら、鏡を見る。 違和感はなかった。 ちゃんと、私だった。 数日後、隣に新しい住人が越してきた。 挨拶に行くと、若い女性が笑顔で出てきた。 「よろしくお願いします」 私は、同じ言葉を返した。 夜。 コン、コン、コン。 壁を叩く音がする。 私は、口角を上げた。 返事を、待っている。