青の境界線 真夏の太陽がアスファルトを焼き焦がし、陽炎が揺れる。東京から車で三時間。山間の小さな町外れに、その場所はあった。 古びた日本家屋。祖父が残した、もう何年も人の手が入っていない隠れ家。僕――高遠悠真は、今年の夏休みをここで過ごすことに決めた。目的はただ一つ、町営プールで泳ぐこと。 そのプールは、古いログハウスを管理棟とする、ひっそりとした場所にあった。周囲には人影もまばらで、静かな森に囲まれている。子供の頃、僕はここでよく泳いだ。都会の喧騒を離れ、ただ水の中に身を沈めることが、何よりも心を落ち着かせてくれた。 「今年も来たのかい?」 受付に座る白髪の老人が、僕を見てにこやかに笑った。このプールは地元の老人たちがボランティアで管理しているため、利用者はほとんどいない。僕にとっては最高の隠れ家だった。 更衣室で水着に着替え、プールサイドに出る。真昼の光を反射して、水面が青くきらめいている。ざぶん、と勢いよく飛び込む。 冷たい水が肌を包み込み、一瞬にして全身の熱を奪っていく。水の中は、別世界だ。耳に入るのは、自分の息継ぎの音と、水が立てる音だけ。ゴーグル越しに見える青い世界は、地上とは違う、穏やかで静かな時間を提供してくれた。 クロールでプールの端から端まで泳ぐ。一掻き、また一掻き。都会での息苦しさ、将来への漠然とした不安、人間関係の煩わしさ。水泳は、それらすべてを一時的に忘れさせてくれる。体が覚えている泳ぎのリズムが、心を解き放っていくようだった。 休憩時間になり、プールサイドのベンチに腰掛ける。風に乗って、森の匂いが運ばれてきた。ふと、隣に誰かが座る気配がした。 「すごい勢いで泳ぐんだね」 透き通るような声。隣を見ると、麦わら帽子を被った少女が、僕と同じように息を整えていた。見慣れない顔だ。この隠れ家プールに、僕以外の若者がいるなんて。 「……うん、昔からよく泳いでるから」 彼女――佐伯渚は、東京から母親の実家に来ているという。人混みが苦手で、静かな場所を探していたらここを見つけたと話した。僕たちはすぐに打ち解けた。同じように都会に疲れてこの隠れ家にたどり着いた者同士、通じ合うものがあったのかもしれない。 それからの日々は、渚と一緒にプールで過ごした。競争するように泳いだり、水中でじゃれ合ったり。無口だった僕の世界に、彼女の明るい笑い声が響くようになった。 ある日の夕暮れ時、プールじまいのアナウンスが流れる。空は深いオレンジ色に染まり、水面を照らしていた。 「この夏が終わったら、私、また来年もここに来るね」渚が言った。「悠真も来てくれる?」 「もちろん」僕は即答した。「ここは最高の隠れ家だから」 帰り道、二人で並んで歩きながら、僕はもう都会に戻る不安を感じていなかった。この夏、水の中で見つけた青い世界は、僕一人だけの隠れ家ではなくなっていた。来年もまた、この場所で、この青の境界線を二人で泳ぐ。そう思うと、未来が少しだけ明るく見えた。
ある夏の向日葵畑 真夏の日差しが降り注ぐ中、リュックを背負った少年、健太は祖母の家がある田舎町に到着した。都会の騒がしさとはかけ離れた静かな場所だった。この町には子供の頃から聞かされていた奇妙な噂がある。「町の外れにある向日葵畑には、幽霊が出るらしい」というものだ。 健太はその話を半信半疑に聞いていたが、ある日、涼を求めてラムネ瓶を片手にその向日葵畑へ足を踏み入れた。背丈をゆうに超える向日葵がびっしりと植えられ、まるで黄色い壁に囲まれた迷路のようだった。太陽に向かって咲き誇る花々が風に揺れ、さわさわと音を立てる。 畑の中心に近づくと、突然、真夏とは思えないほど涼しい風が吹き抜けた。健太は思わず身震いした。そして、向日葵の隙間から、ぼんやりとした白い影が見えた。それは、儚げな姿をした子供の幽霊だった。 幽霊だ。健太は立ちすくんだ。幽霊は健太に気づくと、ふわりと近づいてきた。「遊んでほしいの」と、囁くような声で言った。 健太は恐る恐る尋ねた。「君は、この畑の幽霊?」 幽霊は静かに頷いた。「私の名前は陽子。ずっと一人で寂しかったの」 陽子は健太が持っていたラムネ瓶に興味を示した。「それ、なあに?」 「ラムネだよ。ビー玉が入ってて、冷たくて美味しいんだ」 健太はラムネ瓶の栓を「ポン!」と景気よく開けた。爽やかな香りが広がり、白い炭酸の泡がシュワシュワと音を立てる。陽子は目を輝かせた。「いい匂い」 しかし、幽霊の陽子は、そのラムネに触れることも飲むこともできなかった。 それから毎日、健太はラムネを持って向日葵畑に通った。二人は畑の中でたくさんの話をした。健太は都会での学校の話をし、陽子は昔この町で過ごした日々の話をした。陽子はラムネを飲むことはできないけれど、健太が美味しそうに飲むのを見て、嬉しそうに微笑んだ。 ある日、健太は何かを思いついたように言った。「陽子、ラムネ瓶のビー玉、あげるよ」 健太は空になったラムネ瓶を逆さまにして、中のビー玉を取り出した。透き通った青いビー玉は、まるで小さな宝石のようだった。 「私、こんな綺麗なもの初めて見た」 陽子はビー玉を手のひらに乗せた。すると不思議なことに、ビー玉だけは陽子の手に触れることができた。 夏休みも終わりに近づき、向日葵たちは少しずつ元気をなくし、頭を垂れ始めていた。陽子の姿も、以前にも増して薄くなっていた。 「もうすぐ、お別れだね」と、健太は悲しそうに言った。 「うん。でも、健太と話せて楽しかった。一人じゃなかった」 別れの朝、健太はまた向日葵畑に来た。陽子はもうほとんど見えないくらい薄くなっていた。健太は、新しいラムネ瓶を陽子に差し出した。「来年も、また来るから。これ、ここに置いとくね」 健太が去った後、向日葵畑には、空のラムネ瓶と、一つの透き通った青いビー玉だけが残された。 翌年の夏。健太は約束通り、また祖母の家に来た。向日葵畑は、今年も背高く、鮮やかな黄色い花でいっぱいだった。健太は「ポン!」と音を立ててラムネを開けた。 「陽子、来たよ!」 風が吹き、向日葵たちが一斉に揺れた。健太の耳には、去年の夏と同じ、囁くような子供の声が聞こえたような気がした。健太は今年も、満開の向日葵の下で、一人、ラムネを飲み干した。