午前五時。 ぬしおはデスクに突っ伏したまま、蛍光灯の唸りを子守唄のように聞いていた。 資料の束に押し潰される自分の影が、まるで別の誰かのように見える。 会社を出た時、外の空はまだ薄い灰色だった。 眠気と疲れが混じったその景色に、何の感情も湧かない。 ただ、息をしていることだけが事実だった。 信号を二つ渡った先に、小さな提灯が灯っていた。 『手打ちそば ゆずの香』――初めて見る店だった。 気まぐれのように、ぬしおは扉を開けた。 カラン、と鈴の音が鳴る。 「いらっしゃいませ!」 声が明るすぎて、思わず瞬きをした。 厨房の奥から小さな影が駆け寄ってくる。 白い割烹着を着た少女――小学生くらいだろうか。 黒髪をふわりと結んでいて、笑顔がまっすぐだった。 「お兄ちゃん、何にするの?」 唐突にそう呼ばれて、ぬしおは思わず口元を引きつらせた。 “お兄ちゃん”なんて、誰にも呼ばれたことがない。 彼女の声は澄んでいて、曇った心に落ちる一滴の雨みたいだった。 「……じゃあ、温かいかけそばを」 「はーい!」 厨房の方から湯の沸く音がして、蕎麦の香りが空気に溶ける。 その香りに包まれるうち、ぬしおの肩から力が抜けていく。 湯気の向こうで、少女が丁寧に箸を揃えていた。 「ねえ、お兄ちゃん。お仕事の帰り?」 「……うん。そんなとこ」 「いつもがんばってるんだね」 その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。 誰かに“がんばってる”と言われたのは、いつ以来だろう。 湯気の向こうで、少女――“そば”はにこりと笑う。 「わたし、そばっていうの。お店の名前といっしょなの」 「そば、か……」 「うん。だから、蕎麦食べに来る人はみんな、わたしに会いに来てるんだよ?」 ぬしおは思わず苦笑する。 冗談めかしたその言葉なのに、不思議と胸に残った。 どこか、救われたような気がしたのだ。 湯気の立つ丼を前に、箸を取る。 その瞬間、鼻をくすぐる香りが心を解いた。 ほんの少しの甘味と、優しい温度。 “うまい”というより、“やさしい”。 久しぶりに、食べ物で泣きそうになる。 そばはカウンター越しに彼を見て、嬉しそうに目を細めた。 「また来てね、お兄ちゃん」 その声は、灰色の朝の中で唯一の色だった。 その日から、ぬしおの帰り道には「ゆずの香」があるようになった。 会社を出ると、無意識にその方角へ足が向く。 明かりがついているだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。 「お兄ちゃん、今日も遅かったね」 「うん、また残業で……」 「えらいね。ちゃんとごはん食べてる?」 「……今食べようとしてる」 そんな会話を繰り返すうちに、ぬしおの中で“日常”という言葉がゆっくりと形を取り戻していった。 彼女が差し出す湯気の向こうで、時間が止まるようだった。 疲労も、会社の喧騒も、そばの笑顔の前では薄れていく。 そばは時々、厨房の裏の座敷にぬしおを呼んで、残り物の小皿を分けてくれた。 「お兄ちゃん、これ好きでしょ?」と、無邪気に笑うその目が、妙に懐かしく感じた。 ぬしおはいつの間にか、彼女の存在を待つようになっていた。 その頃、街のどこかの屋上で、一人の女がイヤホンをつけていた。 黒いコートの裾を風に揺らしながら、眼下の通りを見下ろしている。 ホーキ。 赤い瞳が、暗闇に溶け込んでいた。 ――また、ひとつ繋がった。 彼女の手元のノートパソコンには、複数の小さなウィンドウが開いている。 それは街中の防犯カメラの映像。 さらに、カウンターの裏に仕掛けた小さな集音マイクから、店内の音声が流れていた。 《お兄ちゃん、また来てくれてうれしい》 《うん。なんか、ここに来ると落ち着くんだ》 その会話を聴くたび、ホーキの唇がわずかに持ち上がる。 「いいわ……。少しずつ色づいていく感情って、ほんとうに綺麗」 彼女の声は優しい。けれど、その奥にあるのは静かな狂気だった。 ぬしおの世界が少しずつ明るくなるほど、ホーキの興味も深くなっていく。 彼女にとって“恋”は観察対象であり、“崩壊”こそが目的だった。 夜の風が吹く。 ホーキは黒髪を揺らしながら、街を見下ろして呟く。 「そろそろかしら」 そして次の日。 ぬしおが店に入ると、そばが首をかしげながら言った。 「ねえお兄ちゃん、この前の夜、外で誰か見てた気がしたんだ」 「見てた?」 「うん。なんか……じっと。怖くはなかったけど、変だった」 その一言が、ぬしおの胸の奥に小さな不安を落とした。 けれど、そばがすぐに笑って「でも大丈夫、きっと気のせい」と言うと、 その不安は湯気と一緒に消えていった。 その日、店を出たぬしおの背後の電柱の上には、小さな黒い点。 ――マイク。 その先で、ホーキがまた微笑んでいた。
ぬしおは最近、夢を見るようになった。 店のカウンターに座ると、そばの声が遠くから響いてくる。 それはいつも柔らかいのに、最後の一言だけが霞んで消える。 「お兄ちゃん、わたし、ねえ――」 そこで目が覚める。 枕元の時計は午前四時。眠りは浅く、呼吸は重い。 朝の電車の窓に映る自分の顔は、どこか他人のようだった。 笑うことを忘れた表情。 唯一、心が動くのは蕎麦屋の暖簾をくぐるときだけ。 「お兄ちゃん、今日もお疲れさま!」 「そば、今日も元気だな」 「だってお兄ちゃんが来ると嬉しいもん」 その一言で、救われる。 ぬしおの中で、仕事も孤独も、すべてが意味を持ち始めた。 人と人が繋がるって、こんなに単純なことだっただろうか。 けれど、同じ頃。 街のビルの屋上でホーキはイヤホンを外し、風を感じていた。 冷たい空気が頬を撫でるたびに、彼女の唇が小さく震える。 「……いい声ね。人間の“希望”の響きって、どうしてこんなに脆いのかしら」 ホーキの部屋には、複数のディスプレイが並んでいた。 それぞれの画面には別々の角度から映した蕎麦屋の映像。 カウンターの上、出入り口、裏口、そして二階の廊下。 そこに映るそばとぬしおを、彼女はまるで映画でも観るように見つめていた。 ぬしおが微笑むたび、ホーキはノートに何かを書きつける。 「対象A:感情上昇傾向。対象B:同調率上昇。臨界点、近い。」 彼女にとって恋は“現象”だ。 心拍数が上がり、思考が乱れ、行動が変化する。 その過程の美しさこそが、ホーキの愉しみだった。 翌日。 そばが店の前で掃除をしていると、一瞬、風に髪がなびいた。 その先に、赤い傘を差した女が立っている。 長い黒髪に黒いドレス。遠くから、微笑んでいた。 そばがまばたきをした瞬間、女の姿は消えていた。 「……お兄ちゃん?」 その夜、ぬしおに話すと、彼は冗談っぽく笑った。 「そば、それは夢でも見たんじゃないか?」 「ううん。すごく綺麗な人だった。ちょっと怖かったけど。」 ぬしおの胸に、ざらつくような不安が残った。 その日の深夜。 ぬしおの部屋の机の上で、携帯が震えた。 差出人不明のメール。 件名は「見えてる?」 本文は一行だけ。 ――“彼女の笑顔、守れる?” ぬしおの手が止まる。 そして背後の暗闇の中で、パチン、と何かが弾けるような音がした。 その日の朝から、ぬしおの胸に妙な違和感があった。 会社のエレベーターの中、無言の同僚たちを見ていても集中できない。 メールの通知が鳴るたびに、心臓が無意味に跳ねた。 理由は分かっていた。昨日から、そばが店にいないのだ。 「今日はお休みなのかな」と思いながらも、彼は仕事を終えた足で店に向かった。 暖簾は出ている。けれど、店の灯りは薄く、奥からかすかな咳の音が聞こえた。 「……そば?」 戸を開けると、奥の座敷でそばが布団にくるまっていた。 顔は赤く、息が少し荒い。 「お兄ちゃん……ごめんね。風邪、ひいちゃった」 その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。 「なんで言わなかったんだ」 「だって、お兄ちゃんに心配かけたくなくて……」 ぬしおは溜息をつきながら、彼女の額に手を当てた。 熱い。思っていたよりもずっと。 「水、持ってくる」 「うん……ありがとう」 ぬしおは厨房に向かい、冷たい水をコップに注ぐ。 その間も、外の雨音が強くなっていく。 静かな店内に、時計の針の音が響く。 まるで時間がこの場所だけ止まっているみたいだった。 「ねえ、お兄ちゃん」 「ん?」 「お兄ちゃんは、どうしてそんなに疲れてるの?」 ぬしおは思わず動きを止めた。 「……そんなふうに見える?」 「うん。でもね、ここに来るときは、少し笑ってる」 その一言に、胸の奥があたたかくなる。 ぬしおは彼女の横に座り、小さく笑った。 「そばがいるからだよ」 「ほんと?」 「ああ。ここに来ると、世界が少しだけ優しくなる気がする」 そばは小さく頷いて、布団の中で手を伸ばした。 ぬしおの袖を掴む。 「……お兄ちゃん、もう少しだけ、そばにいて」 「わかった」 その手は、驚くほど小さくて温かかった。 ぬしおはその温度を確かめるように、ただ黙って座っていた。 雨の音が遠くなっていく。 外の世界が、ここから切り離されたようだった。 けれど、知らない誰かの視線が確かにそこにあった。 二階の奥の隙間に、小さな黒いレンズが光っていた。 ホーキの部屋では、映像が静かに流れている。 画面の中で、そばの手がぬしおの袖を掴む。 ホーキは指先でガラスをなぞりながら、低く囁いた。 「……そう、それが臨界点。あと少しで、壊れる」 画面の音声がわずかに歪む。 ノイズの中で、ぬしおの声が聞こえた。 「そば、もう大丈夫。きっとすぐ治る」 その声に、ホーキは静かに目を閉じた。 「愛は、優しさの顔をして壊れていく。だから美しいのよ」 朝、出勤前のぬしおはいつも通りの道を歩いていた。 灰色の空の下、あの提灯が見えるはずの角を曲がる。 けれど――そこにあったはずの「ゆずの香」は、跡形もなかった。 看板も、暖簾も、窓の明かりも。 ただ、白いシャッターが閉じられ、上から「当分の間休業します」の紙が貼られている。 胸の奥が空っぽになる音がした。 「……そんな、まさか」 手で紙を触ると、まだ新しい。昨日、誰かが貼ったのだ。 中からは物音ひとつしない。 ぬしおはスマホを取り出し、登録してあった番号にかけた。 “そば”。 呼び出し音だけが続き、やがて無機質な声に変わる。 「おかけになった電話番号は――」 通じない。 その日の仕事はまるで頭に入らなかった。 パソコンの画面に映る書類の文字は霞み、上司の声は遠い。 夕方、気づけばまた同じ道を歩いていた。 閉ざされたシャッターの前で、ぬしおは立ち尽くす。 「……どこ行ったんだよ、そば」 その背後を、ひとすじの影が通り過ぎた。 振り向いても誰もいない。 けれど風の中で、かすかに声がした気がした。 ――お兄ちゃん。 その声に、ぬしおは息を止めた。 耳鳴りのような低い音が混じり、世界の輪郭がぼやける。 ふと見上げた電柱の上、黒い点が光った。 小さなカメラ。 ぬしおは思わず後ずさった。 「……なんだこれ」 視線を感じる。 見えない誰かが、確かに自分を見ている。 夜の街を歩くたび、その感覚が強まっていった。 背中をなぞるような視線。 ガラス越しの赤い光。 どこかの角を曲がるたびに、誰かの影が消える。 そして、その夜。 部屋に帰ると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。 誰もいないはずの部屋に。 中には写真が一枚。 ぼやけた街灯の下、ぬしおの背中と、そのすぐ後ろに立つ黒髪の女。 赤い目が、カメラの中で光っていた。 その裏には、細い文字が書かれていた。 ――「愛は監視の上に咲く」 ぬしおは写真を握りつぶした。 指先が震える。 息が荒くなる。 その瞬間、スマホが鳴った。 発信者不明。 通話ボタンを押すと、ノイズ混じりの声が聞こえた。 「お兄ちゃん……」 ぬしおは息を呑んだ。 「そば!?どこにいるんだ!」 「だいじょうぶ……わたし……」 音が途切れる。ノイズが強くなり、声が消えた。 「そば! そば!」 返事はなかった。 ただ、通話の最後に、女の声が重なった。 優しく、静かに。 「ねえ、ぬしお。あなたは、愛を信じる人?」 通話が切れると、部屋の中の空気が冷たく変わっていた。 続き