街がざわついていた。 近くの商店街の掲示板には「行方不明」の貼り紙。 白黒の写真の中、そばは少し照れたように笑っていた。 ぬしおはその紙を見つめながら、何度も自分の名前を呼ばれている気がした。 “お兄ちゃん”――風の音に混じって、確かに聞こえる。 警察の事情聴取では、淡々とした質問が続いた。 「最後に彼女を見たのはいつですか」 「二日前です」 「その後、何か変わったことは?」 「……わかりません。ただ、誰かに見られている気がして」 刑事は一瞬、視線を上げた。 「“誰かに見られている”?」 ぬしおは頷いた。 「街の至るところにカメラが仕掛けられていて、誰かがずっと監視しているんです」 言葉にしながら、自分でも現実味がないと思った。 だが、あの写真も、あの電話も――幻覚ではない。 帰宅したぬしおは、カーテンを閉め切った部屋の中でスマホを握りしめた。 再生したのは、あのノイズの混じった録音データ。 昨日の通話が自動で保存されていた。 再生ボタンを押すと、すぐに雑音が響く。 “ジジ……ッ” その中に、確かに声が混じった。 「お兄ちゃん……だいじょうぶ、わたし――」 そこまでで途切れる。 けれど、録音の最後の一秒に、もう一つの声が重なった。 女の声。低く、微笑むような。 「観測、完了。」 ぬしおの心臓が強く打つ。 “観測”――あの言葉が頭の中を巡る。 彼は急いでネットでその単語を検索した。 そして、ある記事にたどり着く。 「ホーキ・システム――都市型監視実験、2008年失踪事件」 そこには、十数年前、研究者が街全体に小型カメラを配置していたという記録があった。 “被験者の心理変化を観測し、感情データを収集する目的” しかし、最終報告の直前に関係者全員が姿を消している。 ぬしおは画面を見つめたまま、息を止めた。 ――ホーキ。 あの女の名が、記事の中に書かれていた。 その瞬間、部屋の照明が一瞬だけ揺らいだ。 電気ノイズ。 そして、どこからともなく声が聞こえる。 「見えてるわよ、ぬしお」 ぬしおは立ち上がり、部屋を見回した。 誰もいない。 でも確かに声は近い。 机の上のスマホが自動的にライトを灯す。 画面に浮かんだのは、リアルタイム映像。 そこには、ぬしおの背中と――その後ろに立つ黒髪の女。 彼は反射的に振り向いた。 だがそこには、何もいなかった。 ただ、窓の外の街灯の下に、黒い傘がひとつ転がっていた。
朝、ぬしおは警察からの電話で目を覚ました。 「身元確認をお願いしたいものがある」 淡々とした声。 言葉の意味を理解するのに数秒かかった。 息が詰まり、空気が重くなった。 川沿いの堤防に着くと、警察の規制線の向こうに、白い布が見えた。 記者たちが遠巻きにカメラを構え、風が吹くたびに布がわずかに揺れる。 ぬしおはただ、足元を見つめたまま立ち尽くした。 刑事が近づき、静かに封筒を差し出した。 中には、小さな鈴。 「蕎麦屋の娘さんの持ち物と思われます」 その鈴を見た瞬間、ぬしおの中で音が止まった。 そばが笑いながら首につけていた、小さな銀色の鈴。 “お兄ちゃん、音で見つけてね” そう言って笑っていた顔が、頭の中に浮かぶ。 足元で風が鳴いた。 その音が、鈴の音に似ていた。 その夜、ぬしおは閉ざされた「ゆずの香」の前に立っていた。 シャッターに手を触れる。冷たい。 「……ごめんな」 それしか言葉が出なかった。 ふと、背後から風が吹いた。 その中に、やさしい声が混じる。 「お兄ちゃん」 涙がこぼれた。 幻聴かもしれない。それでもいい。 あの声が、自分の心のどこかに残っているなら、それでいい。 遠く、ビルの屋上。 ホーキは夜風に髪を揺らしながら、下の街を見下ろしていた。 黒いドレスの裾が翻り、赤い瞳が微かに光る。 手にしている端末のモニターには、ぬしおの姿が映っていた。 「やっぱり、綺麗ね」 ホーキは微笑んだ。 「人が愛を知って、失う瞬間。世界が灰色に戻る。――完璧だわ」 風が吹き抜け、端末の画面が暗くなる。 ホーキは目を閉じ、指先で空をなぞった。 「さようなら、そば。あなたの役目は終わったわ」 その時、どこからか、鈴の音が響いた。 小さく、確かに。 ホーキの赤い瞳がわずかに揺れる。 「……まだ、残っているのね。あの子の温度が」 ビルの屋上を離れる足音が遠ざかる。 街の明かりがひとつ、またひとつ消えていく。 そして、ぬしおの耳にはまだあの声が残っていた。 ――お兄ちゃん、また来てね。 彼は空を見上げた。 冬の曇り空の向こう、雪が降りはじめていた。 白い粒が頬に触れ、すぐに溶ける。 灰色の朝と同じ空。 でも今は、ほんの少しだけ温かかった。 https://scratch.mit.edu/projects/1260256149/