雨上がりの街は、どこか焦げた匂いがした。 メガドラは傘を閉じながら、駅の階段を上がる。黒髪の下に隠した小さな耳が、湿った風を感じて微かに動いた。 「今日も残業か……」 呟きは誰に聞かれることもなく、夜に溶けた。 彼女は大企業〈四菱〉の開発部に勤めている。誰かに頼まれると断れない性格が災いして、いつの間にか全員のタスクが彼女の机に集まるようになっていた。 同僚たちは「メガドラさん、助かります!」と笑うけれど、帰りの電車では誰も隣に座らない。 ——猫耳を隠して生きるのは、息をするみたいに当たり前だった。 この街では“獣人”は珍しくないけれど、偏見はまだ根強い。 だから彼女は、黒いカチューシャで耳を押さえ、尻尾も服の下に巻き込んで働いていた。 夜10時。オフィスの明かりが一つ、また一つと消えていく。 メガドラはまだパソコンの前。指先が震えるほど疲れているのに、マウスを動かす手を止められない。 「……少しは休めよ」 背後から、低い声がした。振り返るとウェスタンが立っていた。 長身で、白いシャツの袖をまくり上げた姿が妙に似合う。彼は同じ開発チームのリーダーで、周囲からは“鉄壁”と呼ばれていた。感情を見せず、いつも冷静。 「ウェスタンさん……まだ残ってたんですか?」 「お前が残ってるからだよ。サーバーの再起動、もう俺がやっとく。帰れ」 「いえ、大丈夫です!あと少しで終わりますから!」 頼まれると断れない性格。 けれど彼の場合、頼まれていないのに逆らえなかった。 「メガドラ、目の下クマできてる。倒れたら意味ない」 その言葉を聞いた瞬間、体がぐらりと揺れた。 視界が滲み、頭が真っ白になる。 次に意識が戻った時、彼女はウェスタンの腕の中にいた。 床に座り込んだ彼の膝の上で、肩を支えられている。 「おい、大丈夫か。顔、真っ青だぞ」 「す、すみません……ちょっと貧血で……」 彼の声が近い。息が、かすかに首筋を撫でた。 メガドラの耳がピクリと反応し、髪の隙間から覗いた。 その一瞬、彼の瞳がわずかに見開かれる。 でも、何も言わなかった。 ただ静かに、彼女の髪を整えながら言う。 「耳、可愛いな」 「……っ! な、なんの話ですか!?」 「いや。秘密にしとくよ」 心臓が跳ねた。 理性が、薄氷みたいに揺らぐ。 この人に見られた。けれど、怖くない。むしろ——少し、嬉しい。 オフィスの窓の外、街の光が滲んでいた。 その光の中で、二人の距離だけがゆっくりと変わり始めていた。 翌朝、メガドラは会社のデスクで何度もため息をついた。 ウェスタンに“耳”を見られた。 昨日の言葉が、頭の中で何度も反芻される。 「耳、可愛いな」 ただの冗談。そう思い込もうとした。 けれど、思い出すたびに胸が熱くなる。 あの夜、彼の腕の中で感じた体温が、まだ消えない。 昼休み、エレベーターホールでウェスタンと目が合った。 彼は何も言わず、ただ軽く手を上げる。 ——まるで昨日のことなど何もなかったように。 それが少し、寂しかった。 「メガドラさん、これ今日中に直してくれる?」 同僚が資料を積み上げて去っていく。 机の上はすぐに書類の山。 けれど、頭の片隅で彼の姿がちらつくせいで集中できない。 気づけば、指が震えていた。 疲れよりも、不安。 「どうして、あの人は……何も言わないんだろう」 ——彼にどう思われているのか、それが怖い。 そして同時に、知りたくてたまらない。 その夜、またオフィスに残っていた。 画面の光だけが顔を照らす。 背後から静かな足音。 振り返るまでもなく、誰かわかった。 「また残ってるのか」 低く落ち着いた声。ウェスタンだった。 「はい……その、昨日は……ありがとうございました」 「別に。気にするな」 彼は机の端に手をついて、モニターを覗き込む。 近い。香水も何もつけていないのに、彼の匂いがする。 「無理すんな。お前、頑張りすぎだ」 「頑張らないと、誰かに迷惑かけちゃうから……」 「それ、俺が許さない」 その一言で、メガドラの中の何かが弾けた。 胸の奥が温かくなって、でも少し苦しくて、 気づけば、涙がこぼれていた。 「なんで、そんなこと言うんですか……」 「お前が壊れそうに見えるから」 その声に、心が沈み込むような安心を覚えた。 怖いくらいに、優しい。 まるでこの人に触れられるたびに、自分の形が溶けていくようで。 その夜、帰り道でメガドラは自分の頬を撫でながら考えた。 ——どうして、こんなにあの人の言葉が欲しいんだろう。 ——どうして、他の人の声がもう耳に入らないんだろう。 「ウェスタンさんがいないと、何もできなくなっちゃう……」 小さく呟いた声は、夜の街に吸い込まれていった。 それが依存だと気づくのは、もう少し先のことだった。 雷鳴が街を裂いた夜、会社のビルは停電した。 非常灯の薄明かりだけが廊下をぼんやり照らす。 メガドラはサーバールームで作業していて、扉が自動ロックされたことに気づくのが遅れた。 「……閉じ込められた?」 ドアを押しても開かない。 スマホも圏外。 次の瞬間、背後の影が動く。 「メガドラ」 低い声。 ウェスタンが懐中電灯を手に立っていた。 「助けに来たの?」 「たまたま下の階にいた。大丈夫か?」 「うん……ちょっと怖かったけど」 二人の間を沈黙が満たす。 雨の音だけが、屋根を叩いていた。 停電の中で、ウェスタンの顔はほとんど見えない。 けれど声だけで、彼がすぐそばにいると分かる。 「この前から、少し様子が変だな」 「……そう、ですか?」 「目が、俺を探してるみたいだ」 心臓が跳ねた。 その一言で、ずっと隠していた感情が浮き彫りになる。 「だって……あなたがいないと、落ち着かなくて」 「メガドラ」 「怖いんです。こんな気持ちになるのが……」 ウェスタンは黙って彼女の肩に手を置いた。 それだけで、涙があふれた。 ——理性が、壊れそう。 その瞬間、彼女は自分の胸に手を当てて、かすかに呟いた。 「いっぱい噛んで、いっぱい爪跡つけて、もうこれ以上逃げられないようにしなきゃ.....」 その言葉は、祈りのようだった。 彼女の声に、少しの狂おしさと、甘い愛が混じる。 ウェスタンは何も答えず、ただ彼女の手を包み込んだ。 指先に触れる温もりが、確かな現実だった。 「大丈夫だ。逃げない。俺も、もう戻れないから」 その言葉に、メガドラの瞳が揺れた。 外では雷が鳴り続けている。 でも、彼女の世界は静かだった。 ただ、彼の言葉だけが胸の奥に残っていた。 ——刻まれるのは傷じゃなく、名前でもなく。 互いの心そのもの。 それが二人にとって、初めての“契約”だった。 翌朝のオフィスは、いつもより静かだった。 雨が上がったばかりの空はどこか薄暗く、窓の外の街がぼんやり霞んで見える。 メガドラはデスクに座りながら、自分の手を見つめていた。 昨夜の記憶が断片的に蘇る。 ウェスタンの声、包まれた手、あの温もり。 ——夢みたいに優しくて、でもどこか壊れたように苦しかった。 「……おはよう」 声に顔を上げると、ウェスタンがコーヒーを二つ持って立っていた。 彼のシャツの袖口に、ほんの小さなひっかき傷がある。 その跡を見た瞬間、胸が締めつけられる。 「それ……」 「昨日、サーバールームで引っかけた」 嘘だ。彼女は知っていた。 その傷が、無意識に自分の爪でつけたものだと。 「ごめんなさい……」 「謝るな。痛くもない」 彼はそう言って微笑んだ。 けれど、その笑顔が痛かった。 まるで「大丈夫だ」と言いながら、自分の中に沈んでいく人みたいに。 昼過ぎ。 同僚たちが昼食に出る中、メガドラは机に突っ伏した。 頭の中では、同じ言葉がぐるぐると回る。 ——逃げられないようにしたい。 でも、本当は私が逃げられない。 彼の優しさが、心に爪を立てて離れない。 昨日の夜から、ずっと胸の奥で熱が続いている。 そんな時、ウェスタンの低い声が後ろから聞こえた。 「メガドラ、今日はもう帰れ」 「でも、仕事が――」 「命令だ」 彼の言葉に逆らえなかった。 立ち上がろうとした瞬間、足元がふらつき、椅子に手をついた。 「……やっぱり、無理してる」 彼が支える。肩に触れる指先が、火のように熱かった。 理性が削れていく。 このまま、この人の中に溶けてしまいたい――そんな衝動に息を呑む。 「ウェスタンさん、私……」 「メガドラ」 「あなたがいないと、息の仕方が分からなくなりそう」 沈黙。 その言葉の意味を、彼はすぐには理解しようとしなかった。 けれど、彼女の声の震えだけで、何かが変わり始めていることを悟った。 夜、帰り道。 街灯の下で立ち止まったメガドラは、自分の影を見つめる。 細長い影が、もうひとつの影に重なるように揺れていた。 それは、まるで心に刻まれた爪痕のようだった。 ——もう戻れない。 そう思うたびに、胸の奥で小さく鳴く自分がいた。 夜の空気は、どこか焦げたような匂いがした。 残業を終えたメガドラは、ふらつく足取りで会社を出る。 月は薄く、街灯の下で光る彼女の瞳は、猫そのものの輝きを帯びていた。 「……ウェスタンさん」 振り向けば、そこに彼がいた。 帰り道で偶然出会ったわけではない。 彼もまた、心のどこかで彼女を探していた。 「顔色、悪いな」 「平気です。ちょっと、頭が重いだけ」 「お前、最近ずっとそんなこと言ってる」 その声が優しくて、胸の奥に刺さる。 優しさが怖い。 だって、もうそれがなかったら息ができない。 「……ねぇ、ウェスタンさん」 「なんだ?」 「私、あなたといると、境界が分からなくなるんです」 風が吹いた。黒髪が舞い、隠していた耳がのぞく。 彼はそれを見ても何も言わず、ただ静かに見つめていた。 その目が、彼女の理性を奪っていく。 メガドラは一歩、彼に近づいた。 肩が触れ合う。 心臓の鼓動が、互いの胸を打つ。 「こうしてたら、私の中の何かが壊れてしまいそう」 「壊れてもいい。無理するな」 その瞬間、彼女は小さく息をのんだ。 唇がふと触れ合い、世界が音を失う。 次の瞬間―― 鉄のような味が舌の先に広がった。 それは血ではなく、理性が溶けていく錯覚の味。 ——この人の心を、飲み込んでしまいたい。 胸の奥にそんな衝動が生まれる。 でも彼女はそれを押し殺し、唇を離した。 「……ごめんなさい」 「謝るな」 「私、どうかしてる」 「それでいい。無理に正しい人間になろうとするな」 ウェスタンの声が低く響く。 まるで夜の底から呼びかけるような音だった。 その声に導かれるように、メガドラはそっと彼の胸に顔を埋める。 外では雨が降り出していた。 ガラス越しに映る二人の影が、ひとつに溶けていく。 彼女の中で理性が静かにほどけ、ただ温もりだけが残った。 ——もう戻れない。 それでも、彼の中で生きられるなら、それでいい。
朝の光が、雨に濡れた窓をぼんやり照らしていた。 メガドラはカーテンの隙間から差し込む光を見つめたまま、 まるで夢の続きにいるような気分だった。 昨夜の記憶は曖昧だ。 でも、ひとつだけ確かに覚えている。 ウェスタンの温もり。 そして、自分の心が彼の中に沈んでいった感覚。 胸の奥がじんわりと未だに痛む。 けれど、その痛みがどこか心地よかった。 ——もう、戻れない。 仕事に向かう電車の中、 メガドラは窓に映る自分の顔を見つめた。 瞳の奥に宿る光が、昨日までとは違う。 何かを失って、何かを得たような―― そんな危うい輝き。 会社に着くと、ウェスタンはいつものように席にいた。 彼は何も言わず、ただ視線だけを送ってきた。 その目の奥に、昨夜と同じ優しさが宿っている。 それだけで、胸が熱くなった。 「おはようございます」 「……ああ」 それだけの会話。 けれど、それだけで一日を生きられる気がした。 昼休み、同僚に話しかけられても、返事が曖昧になる。 頭の中はずっと彼のことでいっぱい。 何を食べても味がしない。 何を見ても、彼の姿が浮かぶ。 ——私の中に彼がいて、彼の中に私がいる。 それがこんなに安心するものだったなんて。 夜、帰り道。 メガドラはふと空を見上げた。 街の光が濡れたアスファルトに反射して、 まるで地上に星が落ちたみたいだった。 スマホが震える。 画面にはウェスタンからのメッセージ。 「無理してないか」 その短い一文に、心が震える。 返事を打つ手が震えた。 「大丈夫です。あなたがいるから」 送信ボタンを押した瞬間、涙がこぼれた。 何かが壊れていく音が、心の奥で静かに響いた。 ——彼がいなければ、生きていけない。 ——それでも、彼がいる限り、生きていける。 相反する二つの想いが、彼女の中で溶け合う。 まるで、同じ色をしていたかのように。 翌朝。 オフィスの入り口で、ウェスタンが彼女を待っていた。 「今日も早いな」 「あなたよりは遅いですよ」 笑い合う二人。 けれどその笑顔の奥で、 どちらも気づいていた。 ——もうお互いから離れられない。 ——この絆は、救いであり、呪いでもある。 それでも、メガドラは思った。 たとえ壊れても、彼となら。 夜が明け始める。 東の空が淡い朱に染まり、街全体がゆっくりと目を覚ましていく。 メガドラはオフィスの窓際に立ち、カップのコーヒーを両手で包んでいた。 もうすぐ、新しい一日が始まる。 背後で、ドアが静かに開く音。 振り向かなくても分かる。 ウェスタンの足音は、どんな雑音の中でも聞き分けられる。 「また、早いな」 「習慣です。……もう、眠れなくて」 ウェスタンは小さく笑った。 「俺もだ。考えすぎてな」 二人の間に、しばしの沈黙。 窓の外では、朝の光がゆっくりと世界を満たしていく。 メガドラはふと口を開いた。 「ねぇ、ウェスタンさん。 私、最初はあなたが怖かったんです。 でも今は、あなたがいない世界のほうが怖い」 彼は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。 メガドラの瞳は、どこか寂しげで、それでも確かな光を宿していた。 「だから……最後に、お願いしてもいいですか」 「……なんだ?」 「約束を。どんなに離れても、私のことを忘れないで」 ウェスタンは静かに頷いた。 「忘れるわけがない」 その瞬間、朝の光が二人の間を照らした。 メガドラは一歩近づき、彼の胸に額をそっと寄せる。 心臓の鼓動が重なって響いた。 そして、彼女はほんの一瞬だけ、唇を触れさせた。 それは、恋でも欲でもなく、感謝と祈りのようなキス。 別れではなく、これからを生きるための印。 「……ありがとう」 「こっちこそ。お前に会えてよかった」 窓の外、朝日が完全に昇る。 新しい光の中で、二人の影がゆっくりと重なり、やがて溶けていった。 ——依存ではなく、絆として。 ——逃げられない鎖ではなく、選んだつながりとして。 そしてその日、メガドラは初めて、 “生きたい”という言葉を心から信じられた。