読むだけ
吹雪混じりの灰色の空の下、前線本部の仮設テントは風にあおられて軋んでいた。 鉄の杭で無理やり固定されたその幕舎の中には、二人の将軍。 テーブルの上には泥まみれの地図。血の色にも似た赤い駒を地図の隅にそっと置いたバイエルライン一将は、しばし黙したままその位置を見つめていた。 「第6機甲師団は壊滅状態だ……」 そう呟いた声には、かすかな震えが混じっていた。 「なんという化け物だ……あの魔族の将軍たちは……」 テントの隅に立つベルゲングリューン二将は、壁に立てかけられた寒冷地用の外套から雪を払いながら、無言でその言葉を聞いていた。 バイエルラインは地図に目を戻す。声を少し低くして続けた。 「援護に向かわせた歩兵部隊とも連絡が取れない……全滅してしまったのだろうな。彼らは魔物ながら、我らの祖国のため勇敢に戦ったというのに」 その言葉に、ベルゲングリューンははっとした。 “魔物ながら”という響きに。 まるでそれが、当然のように語られたことに。 彼らはこの地獄の中で、何百万の死体を見た。 人間の、魔族の、獣人の、竜人の、混血の……それを全部、今ではひとまとめに「戦死者」と呼んで報告書に記す。 もう、顔も名前も、声も覚えてはいられない。 覚えていては……潰れてしまうからだ。 だが。 なあ、気づいているか、バイエルライン。 魔物。それは彼らを『人以外(そのほか)』と、ひとしなみにまとめて区別するための言葉だと。 彼らには名前があった。 故郷があった。 笑い方に癖があり、詩を愛し、戦術に冴え、料理が下手で、けれど誇り高い帝国の兵士だった。 ……俺の隣で死んでいった、たった一人しかいない“友人たち”。 彼らのことを“魔物”などとは、俺にはどうしても言えなかった。 「……ベルゲングリューン?」 バイエルラインの声に、ベルゲングリューンは現実に引き戻された。彼の眼差しには、長年の付き合いでしかわからない、かすかな不安がにじんでいた。 「すまん、考えごとだ」 そうだけ返して、ベルゲングリューンは口を閉じた。 外では風が唸りを上げ、遠くで砲声が響いた。 そしてまた、誰かの名が失われていく。 それから数日が経った夜、同じ司令部の中でバイエルラインは、赤い駒がびっしり並ぶ作戦地図を睨みつけたまま、そっとため息をつく。 「……来たか、シュリス」 「失礼します、閣下」 茶髪をきっちり刈り込んだ男が、軍靴の音も静かに進み出た。 彼の名はシュリス・ミルフラン。東部方面軍の中でも指折りの精鋭部隊のひとつ「先鋒軍」の参謀だ。 「報告を」 バイエルラインは、顔を上げぬまま言った。 「敵本隊の動き、確認しました。数は予想以上……九万、いや十万を超える可能性もあります。そして、それらを束ねているのが」 「序列2位 虚界のリーレか。まったく...予備兵力も満足にないというのに」 地図の上で、バイエルラインの指がゆっくりと円を描く。ここを失えば、都市部への道は無防備になる。 犠牲は数十万、数百万では済まないだろうことは、二人には容易に想像できた。 シュリスは、一歩前に出る。 「我々先鋒軍が、帰らぬ覚悟で特攻し、せめて敵の将軍だけでも潰します。……命令を」 短く、それだけを言った。 バイエルラインはようやく顔を上げた。その額に、深く刻まれた皺がある。 「……お前たちを、死なせたくはない」 「私たちは、死ぬ覚悟でおります」 二人の間に、重たい沈黙が落ちる。 遠く、砲声が鈍く大地を震わせた。 バイエルラインは、ランプの火を見つめながら言った。 「覚悟など、この戦乱の世では塵芥だ。我々の玉砕に兵は巻き込むな。先鋒軍は、何があろうと、任務を果たす能力を維持しろ。……それが、唯一の命令だ」 シュリスの口元が、わずかに引き締まった。 「了解しました、閣下」 フリッツ・ヨーゼフ・バイエルライン一将。 俺にとっては、ただの"総司令"以上の人だった。 厳しいときもあったが、不思議と憎めない。 怒るときだって、相手を突き放すんじゃなくて、抱きとめるみたいに叱る。 それが、どれだけ俺たちの支えになったか。 誰よりも、戦場で汗を流し、誰よりも、兵の声に耳を傾ける人だった。 ……けれど、それでも。 あの人は、時に"無意識"に線を引いていた。 「魔族たち」 国のために戦った彼らを、そう呼ぶとき。 その声に、悪意なんて一片もなかったのに。 俺たちは、少しだけ寂しかった。 けれど、それすら人間らしい、と思えた。 あの人は完璧じゃない。だからこそ、こんなにも愛されたんだ。 東部方面軍がガルガン陛下や、主要指揮官のほぼ全員を犠牲にして、先代魔王軍「弐」を討ったとき。 彼は氷の大剣を振るい、膨大な質量を真正面から受け止め、あの化け物相手に何度も何度も立ち上がったと聞く。 身体は限界だったはずだ。 けれどあの人は、最後の最後まで、顔を上げ、皆の先頭にいた。 戦いの果てに、命を落としたその知らせを聞いた夜。 俺は、声をあげて泣いた。 ただの上官が死んだだけじゃない。 俺たちの、誇りが、灯火が、消えてしまった気がしたから。 けれど──かれは今も、俺たち一人ひとりの中に生きている。 あの人が遺した誇りを、決して無駄にはしない。 たとえこの先、どれほどの嵐が来ようとも。 低く不気味な角笛の音は、冷え切った空気を裂くように、何度も何度も鳴り響く。 合図だ。魔王軍の攻撃準備が完了し、いまにも俺たちを飲み込もうとしているという知らせ。 ――来る。 報告を待つまでもない。 地鳴りのような振動が、足元から確かに伝わってくる。俺は外套の前を留め、足元に転がる枯れ枝を踏み折って茂みから立ち上がる。 かつて、ここには仲間がいた。 背中を預けられる戦友が、無言で頷き合える部下が、確かにいた。 だが今は違う。今ごろ俺の仲間たちは皆、遥か後方の陣地で魔族の攻撃開始に気づいているだろう。 ――そして、俺がそこにいないことにも。 剣を抜く。 冷たい刃が、月光を反射した。 仲間はいない。 援護も、奇跡も、期待できない。 だが、不思議と恐怖はなかった。 バイエルライン。 あなたは、こんな気持ちで立っていたのだろうか。 「覚悟など、塵芥だ」 あの夜の言葉が、脳裏をよぎる。 そうだ。 これは覚悟じゃない。