第一章 野生の記憶 まだ子猫のナッツにはあたりは少し暗く感じた。ナッツの知っている猫の匂いはしない。代わりに足元に生えている下生えの匂いとそよ風に揺れる木のしめった匂いがナッツの鼻の中に広がった。ナッツの周りにはたくさんの木立が並び、ナッツの息をする音と葉のかすれる音を除いては何も音がしない。ここはナッツが来たこともない場所だ。永遠に続いていそうなただ広い森の中にただ1人いた。しかし恐怖や孤独は感じなかった。むしろ自分の故郷を思い出すような自然の匂いに包まれ、懐かしいような物を感じていた。しばらくその空気に浸っていたが、ここを冒険したいという好奇心が湧いてきて、ナッツはゆっくりと立ち上がり下生えの柔らかな感触を楽しみながら森の中を歩き始めた。最初は暗いと感じていたが、辺りをよく見回してみると、木々の間からは太陽の光が差し込み、森の中を所々明るく照らしている。日の当たるところには黄色や白の花が咲き、日陰には柔らかそうな苔が生えている。ナッツは外に出たことがなかったので見たことのない物が目に入ってくるはずなのになぜか親しみと喜びを感じた。ナッツが歩いていると突然、近くで怪物が唸るようなゴーっという音が聞こえてナッツは飛び上がって悲鳴をあげそうになった。その音は低く、なにかが揺れているような不気味な音だ。恐る恐る茂みの後ろから音のする方を覗くと、灰色のほこりっぽい太い硬い線が森を二つに分けているのが見えた。びっくりすることに、甲虫のようなツルツルした箱のような形をした胴体を持つ生物がものすごい速さで灰色の硬いものの上を走っていた。ナッツは震えながらあの動物がなんなのか観察した。怪物の下の方には足ではなく丸い黒い物が目に見えないような速さで回転している。どうやらそれを使って走っているようだ。怪物の体はとてつもなく硬そうで、ピカピカ光るほどつるつるだ。ナッツのような子猫でなくともあの怪物に触れたら一瞬にして死んでしまいそうだ。ナッツは嫌な匂いに鼻にシワをよせた。怪物と変な硬い灰色からは鼻がツーンとするような悪臭がする。悪寒を覚えて森の中に戻ろうとした時、突然怪物が向きを変えてナッツの方に一直線に突撃してきた。いざ怪物を目の前にしてみるとその巨体に腰が抜けてナッツはぶるぶると震えながら凍りついてしまった。ああ、神様。まだ子猫なのに僕は死んでしまうのだろうか。ナッツは捨て猫で母さんの顔も覚えていない。せめて母さんの顔を一眼見てから…。と思った瞬間ビクッとしてナッツは目が覚めた。 ナッツはいつも寝かせられている硬い針金のカゴの中にいた。外には人間がうるさい道具を持って掃除している。 「おい、坊や!大丈夫か?」ナッツの上のカゴにいる雄猫が話しかけてきた。「お前さんずっとカゴの中で死にかけたハリネズミみたいにバタバタしてたぞ。」最年長のアウルだ。 ナッツは人間のうるさい道具に負けないように叫び返した。 「ごめん、でかい怪物が出てくる嫌な夢を見てたんだ!」さっきの怪物はただの夢か。なんでもかんでも吸ってしまう人間のお気に入りの道具の騒音があの恐ろしい夢に出てくる巨大な怪物の唸り声に聞こえてしまったのだろう。ナッツは少し安心してため息をついた。それにしてもおっかない夢だったなと思い、ゆっくりと呼吸をして動揺をおさめながら夢に出てきた怪物と森のことを考えて、人間がカゴの外に出してくれるのを待った。 僕は捨て猫だったらしい。だけど今は世話をしてくれている人間に保護されている。人間は僕を可愛がってくれた。保護された時、僕は森の中で見つかったとアウルが教えてくれた。僕は母さんに捨てられたのだろうか。その時僕はちっちゃな子猫だったので母猫とか兄妹の記憶があまりない。なんとなく母さんと兄弟と寝ている時の匂いだけは覚えている。他にもいろんな猫の匂いがするような気がするから大家族だったのかもしれない。ここと同じような部屋で暮らしているのかな。母さんは元気かな。兄弟はどんな顔をしているのだろうか。そんなことをよく考えている。 ここには保護猫と呼ばれている元は捨て猫だった猫が7匹ほど人間に飼われている。年寄りもいればそうでない猫もいろいろいる。僕はこの中で唯一の子猫だ。だからみんなが僕の面倒を見てくれている。やっとうるさい音がやみ、人間が僕たちを外に出してくれた。朝ごはんの時間だ。人間が大きなボウルにミルクとキャットフードを入れた。みんなぞろぞろボウルの方に集まってくる。夜はみんなカゴの中に入って寝ることになっているが、昼間は部屋に出してくれるので、一日中人間が持ってくるおもちゃで遊んだりしてダラダラ過ごしている。「やっと朝ごはんの時間になったわ。」老いても美しい雌猫グレイシャがアウルに話しかけた。「あの人間の道具の唸り声さえなけりゃいいんだがな。」アウルが言った。「本当だよね。」僕が言った。グレイシャとアウルは気に入っているみたいだが、僕はあまりキャットフードが好きではない。乾いていて口の中がパサパサする。人間がたまにおやつに持ってくるささみと呼ばれる肉の方がずっと美味しい。キャットフードでパサパサになった口の中をミルクで口直ししていると、グレイシャが「あら、忘れていたけど今日はナッツが外に出られるようになる日じゃないかしら?」と言った。「なんだって!」ナッツがミルクを吹き出しそうになりながら言った。夢のせいですっかり忘れていた。今までナッツは子猫で小さすぎたから庭にさえ出してもらえなかったけど、今日は庭に連れて行ってもらえる!もうガラス越しに外を見つめなくてもいいんだ!運良く塀に飛び乗れればアウルが言っていた僕が発見された森が見えるかもしれない!「ま、人間が外に出してくれる時間は正午だからまだまだ待たないといけないわね。」グレイシャが言った。 正午になり、人間が庭に続く扉を開けた。アウルとグレイシャや他の猫は日向ぼっこをして春の日差しを楽しんでいる。ナッツは人間に見守られながら庭への一歩を踏み出した。庭の芝生は夢で見た下生えほどではないが柔らかく、太陽の暖かさは気持ちが良かった。そして塀の向こう側から森の匂いがする。目をつぶって日向ぼっこをしていたアウルが森はあっちだと耳で塀の方向を指して優しく教えてくれた。ナッツはついに本物の森が見えると思いワクワクしながら塀に近づいた。後ろ足をバネに勢いよくジャンプして塀の上に飛び乗り、目に広がった光景に目をしばたいた。目のに映り込むのは森だと思っていたが、塀の前には夢で見た灰色の硬い線に似ている物があった。そこを大きな怪物が1匹ナッツの前をすごいスピードで走り抜けたので夢を思い出し、ナッツは毛を逆立てた。ナッツはその奥に目をやった。広大な森が広がっている。ナッツは興奮と少しの恐怖で足の先から頭のてっぺんまでゾクゾクと震えた。なんで僕は見たこともないのに夢にこれとそっくりな物と森が出てきたんだろう。そうか、あそこの森で僕は見つかったんだ。小さい時の記憶が残っていたのかも。でもナッツはそれよりも深い繋がりを感じた。「眺めはどうかい、ナッツ。ランブル道が見えるだろう。」アウルが言っているのはきっと灰色の事だ。「あれは人間のペットの道じゃよ。人間はあのでかいのに乗って移動するんじゃ。」「乗る?変なことをするんだね。」ナッツは言った。人間の変なペットよりも、ナッツは美しい森に見とれて、しばらく見つめていた。すると、突然見たことのない白猫──痩せているのでおそらく野良猫だろう、がナッツの塀に飛び乗ってきた。その速さにナッツはど肝を抜いた。その猫からはここにいる猫とは違う何かを感じた。恐怖が腹の底から湧いてくる。と思った瞬間ナッツの頭がぐわんとして天地が逆になった。どうなっているんだ?首を掴まれた感じがする。人間と他の猫の驚いた叫び声がぐわんぐわんと聞こえた。前に怪物のツルツルした胴体とその奥にある森の木が一瞬見えた。怪物にぶつかる!ナッツは悲鳴をあげて目を固くつぶった。あれ、怪物にぶつかった感じはしない。2、3秒たっただろうか。ナッツは足が地面についたのを感じ、ゆっくりと目を開けた。森と猫が何匹か視界がぐるぐるしているが見えた。大丈夫だ、僕は死んではいない。ぐるぐるがおさまると、ナッツは無事で家からランブル道ををまたいだ森の中に来ていることがわかった。どうやら僕は白猫にさらわれたらしい! ナッツの目の前には、ナッツを誘拐した白猫を含めて3匹いた。3つの知らない顔が僕の顔を覗き込んでくる。その3匹はナッツの知っているどの猫よりも痩せていて毛が砂埃や葉のクズで汚れている野良猫だ。でも毛皮の下にたくましい筋肉があり森と太陽の匂いがする。森を走り抜けてきたみたいだ。ナッツはとても動揺して毛を逆立てていたが、逃げてもまた捕まってしまうと思い、その場でこの3匹を凝視するほかなかった。毛を逆立てているナッツに対して3匹は毛を逆立てていないどころかむしろ僕を知っているかのような親しい目で見てくる。ナッツはいぶかしがった。なんでこの猫達は僕をこんなところに連れてきて、まるで知り合いかのような変な目で見てくるのだろうか。あれ、ちょっと待てよ。森の野良猫。僕は森の中で見つかった。ということはこの猫達は僕の事を知っていて、何か意図があってここに連れてきたってことか?初めて外に出て、ついさっき見たばかりの森の中に連れ去られて、この猫たちに穴が開くほど見つめられてもいるのに、僕と関係があるかもしれないと思ったとたん、不思議とだんだん恐怖が収まってきた。 「おい、本当にそうなのか?」一番大きな雄猫が驚きの表れたかすれた声でゆっくりと白い雌猫に問いかけた。「ええ、この目とこの毛の色。絶対にそうよ!お帰りなさい、ヘーゼルキット。私があなたのお母さんよ。」
<主な登場猫> ・ナッツ 茶色い毛皮に青い目をした雄猫。 ・アウル グレーの毛をした年老いた雄猫。 ・グレイシャ 真っ白な毛をした年老いた雌猫。 これはエリン・ハンター様が書いた「ウォーリアーズ」のフィクションです。エリンハンター様に感謝します。 お詫び プロジェクトの方に小説がなくてすみません。時間がないので、これからもこの形でお届けします!