好きの定義とは 第四章 ねがい この物語は、完全にノンフィクションです。実際にいる人物や物語で構成されています。 この物語は、一部誇張表現や大げさに書いてある部分も存在します。ご了承ください。 --- おそらくぼくは、全国の中学一年生の中でも、一番奇妙で謎めいた最初の一ヶ月を過ごしている自信があった。 入学早々、これほど怒涛の人間関係に巻き込まれておきながら、浮足立つこともなく、まるで実験データを扱うように冷静に状況を分析している人間なんて、きっとこの世界を探してもぼく一人しかいないだろう。 けれど、少しだけ視点を変えてみれば、Yちゃんもまた、彼女なりのものすごい体験の渦中にいるのかもしれなかった。 知り合いが一人もいない、新しい中学校という未知の場所にやってきて、そこで出会った男子に何かの拍子で一目惚れをされる。 その場のノリと勢いもあって、別のクラスの男子――ぼくに、気まぐれに「好き」なんて言ってみたら、さあ大変だ。その言葉の裏を執拗に分析され、気づけば中学生の他愛のない日常会話ではなく、哲学レベルの対話を連日のように迫られているのだから。 一方で、ぼくの側はといえば、さらに悲惨な状況だった。 誰も知らない学校に来て、突然見ず知らずの女子から「好き」と告げられた。それが原因で、その子のことを本気で好きなKくんから、一方的に冷たい嫉妬の視線を向けられるようになった。 それでも脳内のバグ――「なぜ、知らないぼくにそんなことを言ったのか」という矛盾が許せなくて、必死に分析を重ねる。考えすぎて深刻な寝不足に陥り、朝起きれば鏡の中の目は不格好に腫れ上がり、体は微熱を帯びてじっとりと気だるい。 それほどの痛手を負いながらも、ぼくはまだ分析を止められず、自ら進んで考察の迷路を彷徨い続けていた。 睡眠不足の代償は容赦なく、その日の授業にも響いた。チクチクと痛む目のせいで、理科の実験の時間にはルーペのピントを合わせることすらままならなかった。レンズの向こうでぼやける世界を見ながら、ぼくは自分の思考のピントも狂い始めているのではないかと、焦りを感じていた。 その日の朝、廊下でMちゃんの姿を見つけて声をかけた。 「……解決したの?」 Mちゃんはぼくの顔をじっと覗き込み、少し心配そうに、けれどどこか呆れたような口調で尋ねてきた。腫れたぼくの目が、すべてを物語っていたのだろう。 「うん」 ぼくが短く答えると、彼女はそれ以上追及せず、ほっとしたように小さく息を吐いた。 「良かったじゃん」 そう言ってMちゃんは笑った。ていうか、本当のことを言えば、第二章の時点で自分の中ではもう一通り解決していたのだ。もし、入学初日のあの冷めきっていたぼくが今のボロボロな姿を見たら、「もういいだろ、十分だ。これ以上気にするな」と冷ややかに言い放っているに違いない。たしかに、状況を整理するために必要なパーツはすべて揃ったはずだった。すべてを知ったはずだった。でも、それでも、まだ胸の奥に引っかかる正体不明の何かが、どうしても消えなかった。 「やっほー!」 ぼくの思考を乱暴に遮るように、背後から弾んだ声が響いた。振り返るまでもなかった。いつも通りの、あの調子の良いYちゃんだった。 「結局さあ、うちのことすきなん?」 Yちゃんは当たり前のようにMちゃんの腕に絡みつきながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて、ぼくの顔を覗き込んでくる。 「え、そうなん?」 便乗したMちゃんが、面白がるように目を丸くした。 いつものぼくなら、ここでムキになって言い返していただろう。しかし、今度のぼくは取り乱すことも、声を荒らげることもしなかった。ただ冷徹に、凪いだ心のまま、ゆっくりと首を振った。 「違うよ」 ひらひらと、目の前の虫を追い払うように、突き放す手つきをする。でも、そう口にした瞬間、ぼくの心にまた冷たい隙間風が吹き抜けた。本当に「違う」と言い切れるのか。その言葉の真意は、やはり自分自身にすら掴めないままでいた。 「結局好きなんでしょ?」 なおも楽しそうに、距離を詰めてくるYちゃん。 「だから、違うってば」 ぼくはもう一度、低く影を落とし始めた自分の声で、その言葉を繰り返すことしかできなかった。 --- 昼が過ぎ、体育の時間の休み時間のことだった。水筒を飲んでいると、Nくんに呼び止められた。 「君ってさあ、結局Yちゃんのこと好きなの?」 直球すぎる質問だった。ぼくは少しだけ間を置いて、ため息混じりに答えた。 「うーん……ぶっちゃけ、自分でもよくわかんない」 「えー。本当に?」 Nくんは意外そうな顔をした。 「友達みたいなもんかな」 ぼくはそれ以上の思考を放棄するように言葉を濁した。これ以上、誰かに自分の心の内を分析されたくなかったのだ。 そして、放課後になった。今日もいつもの場所で、ぼくとYちゃん、Mちゃんの3人で待ち合わせをする約束になっていた。しかしその前、昇降口の靴箱のところで、ぼくは偶然Mちゃんと二人きりになった。ぼくの頭の中には、どうしてもクリアにしておきたい問いが残っていた。 「今のところ、大きな疑問は大きく分けて2つあるんだ」 ぼくが真面目なトーンで切り出すと、Mちゃんは靴を履き替えながら、「なに?」と短く返した。 「1つ目は、Yちゃんが恋愛相談で言っていた『告白されたという人物』は誰なのか。Kくんの説が高いけど、まだそうと言い切れる根拠が少ないんだ」 「うんうん」 Mちゃんは相槌を打ちながら先を促す。 「そして2つ目。Yちゃんは、一体本当に誰が好きなのか。……これは、もうこれ以上しつこく聞いてはいけないから、もう諦めるつもりだけど」 ぼくがそう言うと、Mちゃんは少しだけいたずらっぽく笑って、声を潜めた。 「あのさあ、Yちゃんに告白したの、Kだけじゃないよ」 「え!?」 思わず大きな声が出た。 「3組の子もだよ」 Mちゃんが教えてくれた情報を頼りに、周りのクラスのやつらにもそれとなく確認してみると、その『第四の人物』の人物像が浮かんできた。「足が速くて、かっこよくて、髪の毛が短い子」らしい。この突然現れた強力な第四勢力に、ぼくの冷静なはずのデータ分析は一気に狂わされ、激しい動揺が走った。 いつもの待ち合わせ場所にYちゃんが合流したとき、ぼくはたまらず、もう一度ストレートに聞いてみた。 「Yちゃんが告白されたのって、一体誰なの? ……言いたくなかったら、言わなくていいけど」 「えー。何でそんなこと聞くの? やっぱりうちのこと好きなんでしょ?」 Yちゃんはまたしても、いつもの防衛線とも言える軽いノリで言葉を返してきた。核心から逃げるための、いつもの笑顔。ぼくはそれに耐えかねて、少し声を荒らげてしまった。 「だから違うってば! 逆に聞くけど、Yちゃんはぼくのこと好きなの!?」 「えー、違うよ」 Yちゃんはあっさりと、少しだけ寂しそうに否定した。 「って、そんなことどうでもいいんだよ! 質問に答えてよ」 「いやだ」 「じゃあ最初から思わせぶりなこと言うなよ!」 ぼくたちの間に、中学生らしい、けれど少し尖った険悪な空気が流れた。そのときだった。 「どうしたの?」 後ろから声をかけてきたのは、いつの間にか現れたTくんだった。彼はスマホを片手に、ニヤニヤしながらぼくたちの顔を見比べている。 「もう一回、あれ見せてあげようか?」 Tくんが言う「あれ」とは、以前駐車場で見せられた、Yちゃんからの「好きです」というLINEのスタンプ画面のことだった。ぼくをからかおうとしているのは明白だった。ぼくは苛立ちを隠せないまま吐き捨てた。 「いらんわ!」 「イランわ? 国の名前?」 「違うわ!」 --- 「……結局、うちのこと好きなんでしょ?」 「ちがうよ! ……もういいよ。そろそろバス来るから、じゃあね!」 ぼくは半ば投げ出すようにそう言うと、一切振り返ることなく、バス停へと向かって歩き出した。 別に、本当にバスがもうすぐ来るわけではなかった。話そうと思えば、残って別の可能性についてもっと議論することもできたはずだった。でも、なぜかこれ以上、彼女と言葉を交わしたくなかった。 遠ざかる校舎の影を踏みながら、ぼくは一人で考え続けていた。 ――Yちゃんは、本当にぼくのことが好きなのだろうか。 それとも、ただの気まぐれなのか。突き放しても、怒っても、何度もまっすぐにぼくの枠に踏み込んでくる彼女の意図が、不思議でたまらなかった。そして、そんな彼女にここまで必死になってしまっている自分自身のことも。 夕暮れの風が、ぼくの腫れた目を冷やすように通り抜けていった。