好きの定義とは 第五章 みらい この物語は、完全にノンフィクションです。実際にいる人物や物語で構成されています。 この物語は、一部誇張表現や大げさに書いてある部分も存在します。ご了承ください。 ぼくは、ある古い記憶の夢を見ていた。 それは、まだ肌寒さが残る小学六年生の二月、家庭科室でのありふれた休み時間の記憶だ。 窓の外にはまだ薄暗い冬の空が広がっていた。 数人の友達と古びた木製の机を囲み、中学生になるのを間近に控えて、誰もが「好きなタイプ」という話題に花を咲かせていた。 当時、恋愛という概念に全く無関係だったぼくは、とりあえずなんとなく脳内で考えた答えを口にした。 「賢くて、面白くて、優しい子かなあ」 すると、隣にいた友達が退屈そうに頬杖をつき、不満そうな声を上げた。 「えー、それだけ? 中身の話はもういいからさ、見た目とかはないの? 髪型とか、服装とかさ」 ぼくは本来、人間の内面や思考のプロセス、あるいは行動の論理性を最優先する人間だ。 外見の優劣という不確定かつ流動的な要素だけで人間を評価するなど、あまりにも非合理的だとすら思っていた。 だが、しつこく食い下がる友達を論理的に黙らせるため、「しいて言うならば」という厳密な条件付きで、ぼくは自分の脳内にある「好ましい記号」を適当に抽出して並べたのだ。 「……メガネをかけていて、髪の毛が長い子かな。ぶっちゃけ外見はどうでもいいんだけど、強いて条件を絞るならそれくらいだよ」 「――っ!」 唐突に目が覚めた。 カーテンの隙間から、容赦のない五月の朝の光が差し込み、睡眠不足で腫ぼったいぼくの目を鋭く刺激する。 なぜ今になって、あの日の記憶を思い出したのだろうか。 「賢くて」「面白くて」「優しくて」「眼鏡をかけていて」「髪の毛が長い」 脳内の検索エラーが弾き出した答えは、あまりにも残酷で、あまりにも明快だった。 ――Yちゃん。 カチリと、すべてのデータが重なって思考のピントが合った瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 ちょっと待て。嘘だ。絶対にありえない。 うそうそうそうそ。そんなはずはない。絶対違う。絶対に違う。 ぼくはベッドの上で頭を抱え、まるで取り返しのつかない深刻なシステムバグを発見してしまったプログラマーのように、ぶつぶつと独り言を呟きながら、狂ったように必死の形相で布団をたたんだ。 そのとき、前日の動揺のせいで痛めていた右手の小指が、シーツのざらついた生地に擦れてズキンと激しく痛んだ。 昨日、放課後の駐車場でYちゃんと繰り広げた、あのヒリつくような押し問答。 ...そして、Tくんがニヤニヤしながら見せてきた、あの決定的なLINEの「好きです」スタンプ画面。 それらの情報処理に脳の全リソースを奪われていたぼくは、完全に集中力を欠き、物理的な注意散漫に陥っていたのだ。 しかし、指先から伝わるリアルな痛覚が、シーツ越しの冷たい刺激となって、ぼくの狂いかけた論理回路を無理やり現実の世界へと引き戻してくれた。 もしも、当時のぼく――恋愛というものを完全なる他人事としてみていて、合理性だけで生きていた小学六年生のぼくが、現在進行形でボロボロになっている中学一年生のぼくを見たら、一体どう思うだろう。 「お前は何をそんなに必死になって、他人の感情の泥沼に足を踏み入れているんだ」と、きっと冷ややかに鼻で笑うに違いない。 入学してから、まだ一ヶ月。 たったそれだけの短い期間で、これほどまでに奇妙で、混迷を極めた人間関係の渦中に立たされることになるなんて、一体誰が予想できただろうか。 こんな泥臭い未来は、ぼくがこれまでに描いてきた緻密な予測シミュレーションのなかに、一ミリも存在していなかった。 いや、冷静に比較分析してみれば、小学校の頃に比べれば環境としては遥かにマシなのだ。 小学校のときは、周囲の倫理観や論理的思考が崩壊しているような問題児ばかりだった。 彼らの理不尽な行動に付き合わされ、精神を消耗するのが心底嫌だったからこそ、ぼくはわざわざ受験をして、隣の市の新しい中学校へと進学したのだから。 客観的に見れば、新しい学校生活そのものは「ものすごく楽しい」の部類に評価されるべきものだ。 それなのに、あの隣のクラスの女子が目の前に現れて、「ファンです」だの何だのと不可解な好意を告げてきて、なんやかんやと振り回されているうちに、状況は「中学生の甘酸っぱい日常の1ページ」を完全に通り越してしまった。 気づけば、答えのない哲学の域まで達してしまっているのだから、本当にどうかしている。 「好き」とは一体何なのか。 記号としての都合の良い好意と、本質としての代替不可能な「特別」は、どこで境界線を持つのか。 そんな答えの出ない数式のような問いを、毎日寝不足になるまで考え続けるなんて、あまりにも合理的ではない。 そして、この物語における何よりも一番やばいところは、これがフィクションの創作物ではなく、「すべて本当におこった出来事」であるという点だ。 潤色のない、地続きの現実。 ぼくは一切の嘘をついていない。 あの休み時間に起こった不可解な出来事は、その直後の昼休みのうちに、忘れないよう猛烈な速度でキーボードをタイピングして記録した。 放課後に夕暮れの駐車場で起こった、あの胸がじりじりと焼けるような会話のディテールは、帰りのバスの揺れの中や、電車の乗り換え所のベンチに座って、ノートパソコンを開いて克明に書き留めたものだ。 「謎の人間関係のバグを直に経験した」 「それに浮かれず、感情に流されず、冷静にデータを集めて分析した」 「そして、その一連の考察プロセスを客観的な一つの小説としてまとめた」 そんな奇特で偏執的なアプローチを試みた中学一年生なんて、日本中、いや、世界中を探してもきっとぼく一人だけだろう。 ぼくは睡眠不足で赤く腫れた目を何度も擦りながら、鏡の前で制服のボタンを一つずつ丁寧にはめていった。 外に出ると、いつの間にかすっかり高くなった五月の太陽が、ぼくの迷いをすべて見透かすように眩しく降り注いでいた。 学校に着くと、ぼくの頭を占拠したのは、新たなデータの更新だった。 「第四の人物は一体誰なのか」 そこが、今一番気になっているところだった。 今までKくんのことしか頭に入ってなかったから、もう一人、Yちゃんに接触した男子がいたとは予想だにしていなかった。 これで、ぼくが解き明かすべき謎は「3つ」になった。 ていうか、Kくんとその子が告白したとき、Yちゃんは一体どう返したのか? そこだけが不思議でたまらなかった。 頭の中の思考回路が、完全にこんがらがり始めていた。 朝、廊下でMちゃんを見つけ、さっそく情報収集を試みた。 Mちゃんはぼくの混乱を見透かしたように、その第四の人物をぼくに引き合わせてくれた。 現れたその顔を見て、ぼくは思わず声を荒らげた。 「おいなんだよ、お前かよ!」 その子は、普通に友達で、普段からよく喋る賑やかなやつだった。 ぼくは単刀直入に、彼に「Yちゃんに告白したの?」とストレートな質問をぶつけてみた。 しかし、彼はあっけらかんと「してないよ」と即答した。 データに矛盾が生じる。 怪訝な顔をするぼくの横で、Mちゃんは「でも、本人は『された』って言ってたよ」と付け加えた。 発言の不一致。どちらかが嘘をついているか、あるいは「告白」の定義自体が二人の間で食い違っているのか。 少し頭を冷やし、情報処理の休憩を挟むために、ぼくたちは廊下のベンチに二人で並んで座った。 ふと周囲の景色を見渡したとき、そこがとある特別な場所であることに気がついた。 「ここ、ぼくとYちゃんが初めて出会った場所だ」 廊下側の窓、午前の光。入学からわずか数日のあの日、ぼんやり外を眺めていたぼくに「ねえ!ファンです!」と声をかけてきた、すべてのバグの始まりの場所。 「あれから、本当にいろんなことがあったな」 ぼくは隣の彼に、あるいは自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。 Yちゃんに「君が好き」と言われたとき、一般的な男子の論理なら喜ぶべき局面で、ぼくには「嬉しい」よりも先に「本当か?」という懐疑心が真っ先に来たこと。 そこから始まった、噂よけの検証、スタンプの流出、そして周囲からの疑惑、そしてこの第四の人物を巡る混迷。 「こんな謎な体験をしてもなおかつ舞い上がらずに考察して、文章にまとめてるのって、ぼくだけだと思うな」 ぼくのいつもの偏執的な独白を聞いて、Mちゃんは呆れたように、けれどどこか楽しそうに、小さく笑った。 結局その日、Yちゃんは来なかった。 Mちゃんから淡々と告げられた理由は、「発熱による欠席」という、あまりにも突発的で、それでいて不可解なものだった。 昨日、あの夕暮れの駐車場でぼくを激しく翻弄し、あれほどまでにエネルギーに満ちあふれた笑顔を向けていた彼女が、なぜ「今」になって熱を出して倒れてしまうのか。 彼女の体調不良は、ぼくの緻密な予測回路をあざ笑うかのように、解けない数式のまま五月の空に浮かんでいる。 割り切れないモヤモヤを抱えたまま、ぼくは教室の片隅で、同じクラスのKくんのところへもう一度足を運んだ。 これまでにも何度か、それとなく事情を探るようなアプローチは試みていた。けれど、答えてくれなかった。 彼の口から漏れた言葉によって、3つのうち1つの疑問が決定的なものとして上書きされる。 放課後。 Mちゃんと一緒に校門を出た。 夕方の光がオレンジ色に傾き、二人の影が長く伸びていく。 そのとき、Mちゃんの友達がこちらに気づいて駆け寄ってきた。 「あ、君も一緒なんだ」 ぼくとMちゃんが並んで歩いているのを見て、彼女は一瞬で何かを察したように、にやっと笑った。 「なんかさ、雰囲気で分かるよね。話してたんでしょ?」 Mちゃんが苦笑いしながら言う。 「まあね。色々あったから」 三人で歩きながら、Mちゃんの友達がふとぼくの方を見た。 「そういえばさ、Yちゃんがね……ずっと言ってたよ。“君、うちのこと好きなんじゃない?”って」 「いやいや、そんなわけないって」 思わず強めに否定すると、二人ともクスクス笑った。 「でもね、それだけじゃなくてさ、その話、けっこう色んな人に言いふらしてたっぽいよ」 「……マジで?」 ぼくは少しだけため息をついた。 でも、そのあとに続いた言葉は、まったく違う重さを持っていた。 「でもさ、そういう告白とかいろいろの行動って、たぶん“仲良くなりたい”からなんだと思うよ」 「え?」 「Yちゃん、小学生のとき……空気読めないキャラでさ。変なこと言っちゃって、みんなから仲間外れにされてた時期があったらしいよ」 ぼくの足が一瞬止まりそうになった。 「……そう、なんだ」 「うん。だからね、たぶん“みんなと仲良くしたい”って気持ちが強いんだと思う。 ちょっと空回りすることもあるけどさ」 その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。 涙がこみ上げてくるのを必死でこらえた。 なぜなら—— ぼくも同じだったから。 小学校の頃、空気が読めなくて、変なやつ扱いされて、ずっと仲間外れにされていた。 それが嫌で、やり直すために受験してこの学校に来た。 「……そっか」 声が震えそうになる。 Mちゃんが心配そうに覗き込む。 「大丈夫?」 「うん……大丈夫。ちょっと、びっくりしただけ」 でも、本当は違った。 Yちゃんも、ぼくと同じだったのか。 同じ痛みを知っていて、同じ苦労をしてきたのか。 学校では泣かなかった。 泣けなかった。 でも、家に帰って玄関のドアを閉めた瞬間、 こらえていたけど、目から星くずが一気にあふれそうになった。 ——そうか。 そういうことだったのか。