周恩来のプロフィール 1898年3月5日 清の江蘇省淮安にて生まれる。生家は没落した封建時代の旧名家。 1913年 天津の南開中学に入学する。 1917年 南海中学を優秀な成績にて卒業する。同校を卒業後、日本に留学する。 1919年4月 第一高等学校と東京高等師範学校を志すも、日本語の習得不足などにより受験に失敗。明治大学などで学んだのち、母校の南開中学に大学部設立の報を聞き帰国・南開大学(天津)に入学。 1919年5月 五・四運動起こる。学生運動のリーダーとして、その頭角を顕す。 1920年 フランスのパリに留学する。ロシア革命の影響を受けて現地で社会主義青年団体を結成。その後、労働党研究のため、イギリスに渡りエディンバラ大学への入学を許可されるも経済的理由により断念。 1924年 帰国する。蒋介石が校長を務める黄埔軍官学校にて役員となる。 1936年 西安事件起こる。事態の収拾に際して、国民党側と国共合作の交渉を行う。 1937年 日中戦争が勃発。周は共産党側の代表として、重慶にて蒋介石ら国民党との協調に尽力し、統一戦線の維持に努めた。 1949年 国共内戦に勝利した中国共産党が、中華人民共和国を建国する。周は国務院総理と外交部長を兼任する。 1955年 アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席。第三世界の有力者らと親交を深める。 1966年〜 文化大革命始まる。周は毛沢東の下で忠実に文革遂行を支える一方で、文化財保護や糾弾される党幹部の保護、紅衛兵の極端な暴虐を抑えるなど文革に歯止めをかける役割も担う。 1971年9月 林彪事件が起こる。これを契機に、復権を果たした鄧小平とともに文革の混乱の収拾を試みる。しかし、周は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられる。 1971年10月 国連でアルバニア決議が可決される。これにより中華人民共和国は国連に加盟し、中華民国は国連と関連の国際機関から追放させられるに至る。 1972年2月 ニクソン訪中を実現。アメリカとの国交正常化に向けて大きく前進。 1972年9月 日本の田中角栄首相との数度の交渉を経て、日中共同声明を調印する。これによって日中は国交正常化されるに至る。 1974年6月 ガンのため病院に入院する。入院中も病室にて執務にあたる。 1975年 病を押して全人代にて登壇。国防・農業・工業科技の「四つの近代化」を提唱する。 1976年1月 膀胱癌のため亡くなる。享年77。 (出典: ・山川出版社 世界史探究 詳説世界史 ・周恩来『十九歳の東京日記』 小学館文庫 ・中国の科学技術 https://china-science.com/shu-onrai/ ・日本記者クラブ https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/34776 )
若き日を日本・フランスなどの海外で過ごした周恩来は、河上肇(京都帝大の元教授・マルクス経済学者)やロシア革命の影響を受けて革命の道へと歩みを始める。 五・四運動、日中戦争、第二次国共内戦を経て、中華人民共和国の成立に至るまでに彼は共産党内での確固たる地位と信頼を築いた。しかしそれは同時に、毛沢東との緊張を孕んだ関係性を生み出すにも至った。表向きには毛沢東の意向に忠実な彼だが、その行動には毛沢東を"宰相として諌める"ものも多くあり、毛沢東も彼を警戒していたようである。毛沢東と周恩来 ───革命の"父"と"母"の微妙な関係性は、周恩来が亡くなるまで続くこととなるのだ。一つ逸話を挙げると、彼の死去した年の年末に毛沢東が花火を打ち上げさせたことは、さまざまな憶測を呼んだものである。 そして周恩来について語る時、特筆すべきはやはり彼の内政・外交における手腕であろう。 彼が外交の表舞台に出ていた時代は、まさしく冷戦の真っ只中である。米ソが激しく対立する中、中華人民共和国はアメリカともソ連ともお世辞にも良好とは言えない関係となっていた。そんな中で彼が目をつけたのは、南・東南アジア、アフリカを中心とする「第三世界」との接近であった。アジア・アフリカ会議(バンドン会議)や非同盟諸国との外交、そこでの彼の振る舞いは、中華人民共和国の影響力を高めることに大きく貢献した。そして、その実質的な成果の一つが「アルバニア決議の可決」である。この決議の可決によって、中華人民共和国は中華民国(現在の台湾にあたる)に代わって中国代表権を獲得し、正式に国際社会の一員としての歩みを始めたのである。彼の地道な根回しによって、中華人民共和国が国際社会から認められるに至ったのは、彼最大の功績ともいえよう。 また内政においても彼の功績は無視できない。戦後の中国の社会主義において、科学と科学者は軽視される傾向にあった。特に大躍進政策や文化大革命の時期には、国民の批判の矛先が科学者を含めた知識人に向けられることも多々あった。そんな中で彼は、指導者としていち早く科学の重要性を感知しており、文革の嵐の中で知識人の保護にも注力していた。そんな彼のことを、文革期を生き抜いた中国人作家はこう語る。「周恩来が中国という国の機能をまがりなりにも維持していたことが毛沢東の手による浩劫(大厄災)を可能ならしめたという側面はあるが、一方で、周恩来がいたからこそ中国は完全に崩壊せずにすんだとも言える」 彼が晩年に提唱し、後に鄧小平政権下の改革開放で本格的に推進された「四つの近代化」は、50年の時を経て、今の中国の発展の根底となって生きている。科学を侮らず、国の発展に科学が必要であると論じた彼の考え方は、今の中国発展の基礎となったのである。