みんなは世界が終わるって聞いたとき、まず何を思うのか。 私が最初に思ったのは『明日の数学のテスト、受けなくていいんだ』だった。 世界が終わるというのに、テレビのニュースキャスターは驚くほどいつも通りのネクタイを締めていた。画面の隅っこには、親切にも「地球衝突まであと72時間」というデジタル時計が、秒単位でカチカチと時を刻んでいる。 窓の外からは、遠くでパトカーのサイレンや、誰かの怒鳴り声、それからパリンと何かが割れる音が聞こえる。買いだめだか暴動だか知らないけれど、みんな必死だ。馬鹿みたい。 ベッドに寝転がったままスマホの画面をスクロールする。SNSは案の定、お気持ち表明とデマと世紀末の狂気で溢れかえっていた。 (あと3日で死ぬのに、今さら水や缶詰を奪い合ってどうするんだろう) 私はスマホを放り出し、天井を仰いだ。 悲しいとか、怖いとか、そういう感情は驚くほど湧いてこない。私の人生なんて、世界が滅びる前からとっくに終わっていたようなものだ。学校では空気のように過ごし、家では冷え切ったレトルトを食べる毎日。ただ、明日からの期末テストを受けなくてラッキー。私の終末に対する感想は、本当にそれくらいだった。 世界なんて、さっさと滅びちゃえばいい。 そう思った、次の瞬間だった。 ゴオオオオオオオオオオオッ!!! お腹の底に直接響くような、凶悪な重低音が部屋の窓ガラスを激しく震わせた。 地鳴り? いや、違う。これは、エンジンの音だ。しかも、最近のハイブリッドカーみたいな上品なやつじゃない。ガソリンを大食いしながら鉄の塊を無理やり動かしているような、野蛮な爆音。 慌てて窓から顔を出すと、隣の家のガレージから、ひしゃげたシャッターをぶち破る勢いで「それ」が飛び出してきた。 「……は?」 呆然とする私の目に飛び込んできたのは、目がチカチカするほど真っ赤な、とんでもなくデカいアメ車だった。時代錯誤もいいところの、クラシックカーというやつ。 その運転席の窓から、眩しい金髪をショートカットにした頭がひょっこり顔を出した。 隣の家に住むヤンキー、アキさん(21歳、無職)。 彼女は大きすぎるサングラスを人差し指でクイッと下げると、2階の私を見上げて、白い歯を見せてニカッと笑った。 パーーーーーンッ!!! 近所迷惑なんてレベルじゃないクラクションが響き渡る。 「おーーーい、ハル! 上がれ(乗れ)!!」 バカなのかな。世界が終わるっていうのに、この人は何をやってるんだ。 居留守を決め込もうと窓を閉めようとしたけれど、アキさんの行動力は私のドン引きを遥かに追い越していた。 数秒後、ドカドカと階段を駆け上がる乱暴な足音がして、私の部屋のドアが勢いよく蹴り開けられた。不法侵入だ。警察も機能していないからって、自由すぎる。 「何。不法侵入なんだけど、アキさん」 「いいじゃん世界終わるんだから! 細かいこと気にすんなって!」 アキさんは私のベッドの端に腰掛け、部屋を見回した。彼女の体からは、ガソリンの匂いと、少し甘い煙草の匂いがした。 「それよりお前、そんなところで何してんの? 葬式みたいな顔してさ」 「見ての通り、静かに死を待ってるの。アキさんこそ、何その赤い車。どこから盗んできたのよ」 「人聞きが悪いな! 親父の形見だよ。ずっとガレージの奥で眠ってたのを、さっき無理やり叩き起こしたんだ。ガソリンも満タン、シスコ号の復活ってね!」 アキさんは立ち上がると、私の腕をガシッと掴んだ。 その手のひらが、びっくりするくらい熱くて、一瞬息が止まる。 「おいハル、海行くぞ。本物の、すっげえ広い海」 「……嫌だよ」 私はその手を振り払おうとした。 「外は暴動で危ないし、なんで私がアキさんと行かなきゃいけないの。ここで一人で寝てたい。放っておいてよ」 アキさんは手を離さなかった。それどころか、少しだけ悪戯っぽい笑みを消して、私の目をまっすぐに見つめてきた。サングラスの奥にある茶色い瞳が、真剣に揺れている。 「お前、このまま狭い部屋で、スマホ見ながら死ぬの? ……クソつまんねえじゃん」 アキさんの声が、エンジン音みたいに私の胸の奥に響く。 「どうせあと3日でみんな死ぬんだよ。だったらさ、学校サボって私とシスコと、心中しに行こうじゃん」 心中。 なんて言葉を、この人はこんなに軽々しく、楽しそうに使うんだろう。 馬鹿馬鹿しい。行くわけがない。そう思っているのに、アキさんの手の熱が、私の冷めきった体温をじんわりと溶かしていくみたいで、心臓がいつもより少しだけ速く動いているのがわかった。 ◇ 「……なんで私が助手席にいるわけ?」 気がつけば、私は真っ赤なアメ車の、やたらとふかふかしたレザーシートに座らされていた。足元には、アキさんが私の部屋から適当に掴んでバッグに詰めた、ポテトチップスと数着の着替え。 「よし、出発進行!」 アキさんがシフトレバーを荒々しく動かし、アクセルを強く踏み込む。 ドゴォッ!と背中を強打するような加速と共に、赤い鉄の塊が走り出した。 エアコンが壊れているらしく、窓は全開。ゴオゴオと容赦なく吹き込んでくる風が、私の髪をめちゃくちゃにかき乱す。 バックミラーを覗くと、パニックで混沌とする、見慣れた退屈な街がどんどん小さくなっていくのが見えた。 アキさんはダッシュボードから古いカセットテープを引き出すと、ガチャリとデッキに突っ込んだ。スピーカーから、割れた重低音の古いロックが流れ出す。アキさんはハンドルを叩きながら、風に向かって大声で笑っていた。 うるさい。暑い。風が強い。 最低の乗り心地だ。 だけど、窓の外を流れる景色を見ていたら、私の口元が少しだけ緩んでいくのを止められなかった。胸の奥が、ドクドクと、うるさいくらいに脈打っている。 あと3日で世界が終わる。 私は、隣の家のヤンキーが運転する、エアコンの壊れた真っ赤なアメ車に拉致された。 最低で、サイコーの、世界の終わりの始まりだ。
時速マイル表示のスピードメーターは、すでにかなりの速度を指している。 私たちが乗るシスコ号は、高速道路(ハイウェイ)をひた走っていた。いや、正確には「ひた走る」なんて優雅なものじゃない。 「おいハル! 掴まってな!」 アキさんがハンドルを鋭く切るたび、私の体は右へ左へと派手に揺さぶられた。 窓の外は、地獄のパレードのようだった。 乗り捨てられたミニバン、衝突して煙を吹いているトラック、高級外車。誰もが少しでも遠くへ、少しでも安全な場所へ逃げようとして、結局ここで力尽きたのだ。 道路を埋め尽くす鉄の残骸を、アキさんは恐るべき運転技術で、縫うようにすり抜けていく。 カーステレオからは、さっきからずっと淡々としたニュースが流れていた。 『……衝突予測地点の変更はありません。政府は国民に対し、冷静な行動を……』 世界が終わるっていうのに、アナウンサーの声は眠くなるほど平坦だ。 「ねえアキさん、ニュース消してよ。気分悪い」 「ん? ああ、そうだな」 アキさんがスイッチを切ると、車内は一瞬、V8エンジンの爆音だけになった。 渋滞地帯を抜けると、目の前には誰もいない、ぽっかりと空いた直線のハイウェイが広がった。アキさんはアクセルを一定に保ち、ふぅ、と息を吐いてサングラスを頭に上げる。 私は足元のバッグからポテトチップスを取り出し、袋をバリッと破いた。 「食べる?」 「お、サンキュ。口に入れて」 「……はい」 運転席に手を伸ばし、アキさんの唇の間に数枚のポテトチップスを放り込む。アキさんは「んぐ、うめえ」とリスみたいに頬張った。 世界が終わるっていうのに、私たちはドライブスルーにでも行くみたいに、どうでもいい雑談を始めた。 学校のサボり方、アキさんが昔やらかした原付の自爆話、将来何になりたかったか。 「将来」なんて言葉、あと2日と少しで消えてなくなるのに、口にしても不思議と虚しくはなかった。 「……ねえ」 ポテトチップスの塩気が指に残る。私はずっと気になっていたことを、バックミラー越しに問いかけた。 「アキさんって、なんで私だったの?」 「あ?」 「隣の家には私の他にも、もっとまともな大人がいたじゃん。なんでわざわざ、挨拶くらいしかしたことない女子高生を拉致したわけ?」 アキさんは前を見つめたまま、一瞬だけ黙った。 「さあね。お前が一番暇そうだったから——」 アキさんがいつもの調子で言いかけた、その時だった。 パンッ!!! 鋭い破裂音がして、車体がガタガタと激しく右に傾いた。 「チッ、キャリパーか!? 違う、踏んだな!」 アキさんの目の色が変わる。路上に散らばっていた、何かの事故の破片を踏んだらしい。 シスコ号が悲鳴を上げながら横滑りを始める。時速100キロを超える鉄の塊が、コントロールを失ってガードレールへと吸い寄せられていく。 「アキさんっ!!」 私はシートにしがみつき、目を瞑った。 (ああ、小惑星を待つまでもなく、ここで死ぬんだ。私の人生、やっぱりこんなもん——) だが、死の衝撃は来なかった。 ギギギギギギッ!とタイヤが激しくアスファルトを削る音と、アキさんの「踏ん張りなッ!」という短い怒鳴り声。 車体は激しくスピンし、ガードレールの数センチ手前で、信じられない強引さで停止した。 静寂。 荒い呼吸の音だけが車内に響く。 私は恐る恐る目をあけた。助手席の窓のすぐ外には、冷たい鉄のガードレールが迫っている。 隣を見ると、アキさんがハンドルを握ったまま、肩で息をしていた。 その横顔を見て、私は息を呑んだ。 いつもヘラヘラして、怖いものなんて何もないみたいに笑っているアキさんの額から、冷や汗が流れている。ハンドルを握る指先が、かすかに震えていた。 (あ……。この人だって、怖いんだ) 世界が終わることも、死ぬことも。本当は怖くて、必死で、張り詰めた糸の状態で、私を乗せて走ってくれているんだ。その事実が、私の胸を痛いくらいに締め付けた。 「……わりぃ、ビビらせたな」 アキさんはいつものワイルドな笑顔を作って、私の頭を乱暴に撫でた。 「大丈夫。タイヤは生きてる。ホイールがちょっとガリっただけだ。シスコは頑丈だからな」 アキさんはシフトレバーを入れ直し、再び車を前進させる。 車は少しだけ不機嫌な音を立てながらも、しっかりとした足取りで、またハイウェイを走り始めた。 先ほどまでの「退屈しのぎのドライブ」の空気は、もう終わっていた。 私たちは同じ恐怖を通り抜け、同じ命を共有している。 私はシートに深く背中を預け、今度はバックミラー越しではなく、隣にいるアキさんの横顔をじっと見つめた。アキさんの金髪が、傾きかけた夕日の光を浴びて、オレンジ色にギラギラと輝いている。 (世界なんてどうでもいい。それは本当。……でも) 私は、アキさんの運転する車のスピードが、もう少しだけ遅くなればいいのに、と思ってしまった。目的地である海に着けば、世界が終わる。だったら、この終わらないハイウェイの上が、ずっと続けばいいのに。 「アキさん」 「ん?」 「……お腹すいた。次のサービスエリア、なんか美味しいものあるかな」 「ばっかお前、誰もいないんだから全部食い放題だよ。高級アイス奢ってやるよ」 アキさんが笑う。私も、小さく笑った。 真っ赤なアメ車は、夜の帳が下りようとするハイウェイを、さらに加速していった。 【次回】 https://scratch.mit.edu/projects/1323170470/