アキ姉の愛車、真っ赤なシスコ号の弱点がさっそく発覚した。 まだ希望はあったし、何回かカチカチすれば治るんだろうなぁとは思っていた。けれども。 エアコンが、完全に死んでいる。 「いやー、形見とはいえ1960年代の車だからさ! 逆に今まで動いてたのが奇跡っつーか!」 「アキ姉、ポジティブなのはいいけど、普通に熱中症で世界が終わる前に死ぬんだけど」 5月の爽やかな風、なんて生易しいものじゃない。ハイウェイを爆走するシスコ号の窓を全開にしているせいで、車内は常に大型の台風が直撃しているような状態だった。 ゴオオオオオオオオオッ!!! と容赦なく吹き込んでくる暴風。 私の視界は、さっきから完全にシャットアウトされていた。 「あー、もう! 最悪……っ!」 私のセミロングの黒髪が前へ後ろへと激しくめくれ上がり、顔全体にバサバサと張り付く。口を開ければ髪の毛が飛び込んでくるし、何より、前髪が完全に天井に向かって垂直に逆立っていた。前が見えない。 「ひゃははははは! ハル、お前ウケる! 昔のビジュアル系バンドみたいになってんぞ!」 ハンドルを握るアキ姉が、私の顔を見て大爆笑している。 アキ姉は金髪のベリーショートだから、風が吹こうが何しようが、ワイルドに髪が揺れるだけで様になっているのが本当に忌々しい。背が高くて、Tシャツから覗く腕のラインもしなやかでかっこいいのに、笑い方だけは本当にガキっぽくて豪快だ。 「笑い事じゃないってば! 髪の毛が目に入って痛い……っ、もう窓閉めて!」 「閉めたらサウナだぞ? よし、ちょっと止めるか」 アキ姉はハイウェイの非常駐車帯にシスコ号を滑り込ませた。 エンジンがアイドリングの重低音に切り替わり、風がピタッと止む。 私はルームミラーを覗き込んで、絶句した。 そこには、前髪が重力に逆らって芸術的に爆発し、おでこが全開になった、お世辞にも女子高生とは言えないマヌケな私の顔があった。 「うわ、ひっど……」 「な? だから言ったろ、爆笑だって」 「誰のせいでこうなったと思ってるのよ」 私がふてくされて髪を手で押さえていると、アキ姉が「待ってろ」と言ってダッシュボードをごそごそと漁り始めた。 「確か、前に乗せた女友達が忘れてったやつが……あ、あったあった」 取り出したものを私の前に差し出した。 黒い、シンプルなヘアピンが2本。 「ほら、これで留めな」 「……いらない。誰の物かもわからないやつなんて」 「頑固だなー。じゃあ私がやってやるよ。ほら、こっち向け」 アキ姉が助手席側にぐいっと身を乗り出してきた。 狭い車内、一気にアキ姉の顔が近づく。ガソリンと、ほんのり甘いシャンプーの匂い。 「ちょっと、自分でできるって」 「動くと刺さるぞ」 アキ姉の大きな手が、私の額に触れた。 ヤンキーのくせに、その指先は驚くほど器用に、優しく、私の邪魔な前髪をかき分けていく。 アキ姉の顔が、すぐそこにある。 綺麗な二重まぶた、少し日焼けした肌、いたずらっぽく笑う薄い唇。 じっと見つめられているわけじゃないのに、私はどこを見ていいか分からなくなって、思わず目を泳がせた。 (なんなの、この人。距離感バグってんじゃないの……) 心臓が、さっきの暴風よりもうるさくトントンと脈打ち始める。アキ姉の指が私の頭皮に触れるたび、そこから熱がじんわりと広がっていくみたいだった。アキ姉の耳に光るシルバーのピアスが、夕日に反射してきらりと光る。 「よし、できた」 パチン、とピンが留まる。 アキ姉は満足そうに身を引くと、私の顔を見て「お」と声を漏らした。 「なんだ、ハル、お前おでこ出した方が可愛いじゃん。顔ちっちぇえな」 「っ~~~~~~!」 心臓が跳ねた。 からかわれているだけだと分かっているのに、カッと顔が熱くなるのが自分でも分かった。私は慌ててルームミラーに視線を逸らす。 ミラーの中の私は、おでこが綺麗に出ていて、心なしか耳のあたりまで真っ赤になっていた。 「……無駄にキープ力あるし」 「だろ? シスコの風にも負けねえよ」 「アキ姉、次『可愛い』とか言ったら、走行中にドア開けて飛び降りるから」 「おー怖。心中にはまだ早いっての」 アキ姉はまたケラケラと笑いながら、アクセルを踏み込んだ。 再び、猛烈な風が車内に吹き込んでくる。 だけど、今度は前髪が目に入ることはなかった。 しっかりとピンで固定されたおでこに、ダイレクトに風が当たって涼しい。 私は助手席の窓枠に肘をつき、流れていく景色を眺めた。 世界が終わる瀬戸際で、私はおでこを出して、隣の家のヤンキーのお姉さんに「可愛い」なんて言われている。 バカバカしい。本当に、全部がバカバカしい。 でも、風に当たりながら、私は赤くなった耳をアキ姉に見られないように、ずっと外を向いたまま、小さく口元を緩めていた。
深夜2時。国道沿いにぽつんと佇むコンビニは、まるで深海に沈む難破船のようだった。 看板の明かりは消えているのに、自動ドアだけが「ウィーン」と間抜けな音を立てて開く。まだ自家発電が生きているらしい。 「お邪魔しまーす。……お、誰もいねえな。完全貸し切りじゃん」 アキ姉が、誰もいない店内にスタスタと入っていく。 棚は半分くらい荒らされていた。パンやカップ麺、水といった「生き残るための物資」は綺麗に消え去っている。だけど、生きていくのに全く必要のない「嗜好品」のコーナーは、驚くほど手つかずのまま残されていた。 「ハル、見てみろよこれ。宝の山だぜ」 アキ姉が長い指で指さしたのは、普段なら高くて絶対に手が出ない、一粒数百円もするような海外製の高級チョコレートの棚だった。 私たちはカゴを取り、お互いに「世界が終わるまでに食べてみたかったもの」を片っ端から放り込んでいった。 棚から溢れんばかりのお菓子を抱えて、レジの床に直接ペタンと座り込む。店員がいないレジの中で、私たちは不謹慎なパーティーを始めた。 「んー! このチョコ、中にベリーのソースが入ってて超うまい! ほら、ハルも口開けて」 「……自分で食べられるってば」 あの時おでこを触られて以来、アキ姉が距離を詰めてくるたびに、私の心臓はいちいちうるさい。私はアキ姉の手からチョコを奪い取るようにして口に放り込んだ。甘酸っぱくて濃厚な味が、じわりと広がる。 「ねえアキ姉。これ、全部タダなんだよね」 「おう、タダ。もうお金なんてただの紙切れだからな。法律も賞味期限も、あと2日で全部おしまい」 アキ姉はコーラのペットボトルをあけ、ゴクゴクと喉を鳴らした。 世界が滅びるディストピア。なのに、私たちの周りだけは、まるで子供の頃に夢見た「お菓子屋さんにお泊まりする」みたいな、甘くてキラキラした空間になっていた。 「……ねえ、アキ姉」 チョコの包み紙を指先で弄びながら、私はさっきからずっと気になっていたことを、何気なさを装って口に出した。 「アキ姉って、なんで私を連れてきたの? 退屈そうだったからってのが嘘っぽく聞こえて。」 「あ?」 「なんで挨拶くらいしかしたことない女子高生だったわけ?」 アキ姉はコーラを飲む手を止め、少し意外そうに私を見た。それから、少しだけ寂しそうに、でも愛おしそうに目を細めた。 「さあねえ。お前が一番暇そうだったから、ってのもあるけど……」 アキ姉はレジの床にゴロンと仰向けに寝転がると、天井の蛍光灯を見つめながら言った。 「世界が終わるってニュースを見たときさ、私、あのアメ車の中で一人で死ぬんだなーって思ってたんだよね。どうせ私のことなんて、誰も覚えてないし。でもさ……隣の窓見たら、お前が今にも消えそうな顔してスマホ見てただろ?」 アキ姉は顔だけを私のほうにくるりと向けて、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべた。 「それ見たらさ、なんか、一人で死ぬの急に退屈に思えてさ。お前が隣にいてくんないと、シスコの助手席が寂しいだろ。……ほら、その高いクッキーもあけろよ。全部食べ尽くして、世界一不健康になって死んでやろうぜ」 「……アキ姉のバカ」 私はそっぽを向いて、新しいクッキーの袋を乱暴に破いた。 顔が熱い。胸の奥が、チョコよりも甘くて、クッキーよりももどかしい何かで満たされていく。 ただの退屈しのぎだと思ってた。 でも、アキ姉は「私」だから連れ出してくれたんだ。世界の最後に、私の隣を選んでくれたんだ。 賞味期限が切れる前に、世界が終わる前に。 私はこの最高にかっこいいお姉さんに、完全に狂わされている。 【次回】