深夜の国道沿いに浮かぶ、黄色い「M」のロゴマーク。 看板の明かりは消えかけてパチパチと明滅しているけれど、ドライブスルーのレーンには誰もいない。当たり前だ、世界はあと2日で終わるのだから。 アキ姉はシスコ号をドライブスルーの注文口の真横にピタッと止めた。 窓を全開にして、マイクに向かって大声を張り上げる。 「すいませーん! ビッグマックセットふたつ! あと地球滅亡のトッピングで!」 ……当然、スピーカーからはザーッという砂嵐の音しか返ってこない。 「あはは! やっぱり誰もいねえわ。よしハル、裏から入るぞ!」 「ちょっとアキ姉、不法侵入が板につきすぎ。……まあ、もう警察もいないけど」 私は呆れつつも、シスコ号の助手席から降りた。 アキ姉は慣れた手つきで従業員用の勝手口の鍵をこじ開け(どこでそんな技術を覚えたんだか)、私を手招きする。 店内は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。 厨房に入ると、まだ電源が生きていたフライヤーや保温棚が、かすかにブーンと唸っている。 「な、ハル。ポテトなら私でも揚げられるぜ。見てな」 アキ姉は冷凍庫からポテトの袋を取り出すと、勢いよくフライヤーの油の中に投入した。 ジワジワ、パチパチと小気味いい音がして、あの独特の香ばしい匂いが厨房に立ち込める。アキ姉は「おー、天才かも」と嬉しそうに目を輝かせている。金髪のショートヘアに、油の匂いは驚くほど似合わなかったけれど、その少年みたいな笑顔から目が離せなくなる。 「ほらハル、揚がったぞ!」 アキ姉がトングを使って、揚がったばかりのポテトをポテトバケット(あの赤い紙のケース)に不器用にてんこ盛りにした。 「熱っ! ちょ、これマジで熱いって!」 「バカ、慌てすぎ。貸して」 私はアキ姉の手からトングを取り上げ、手際よく残りのポテトをすくい上げた。 ふとアキ姉の手を見ると、親指の付け根あたりが赤くなっている。油が跳ねたらしい。 「あーあ、言わんこっちゃない。火傷してるじゃん」 「へーきへーき、ヤンキーの皮膚は頑丈にできてんの」 「そういう問題じゃない。じっとしてて」 私はアキ姉の腕を掴み、まだ水が出る水道のところまで引っ張っていった。 蛇口をひねり、冷たい水をアキ姉の手に浴びせる。 「冷たっ……」 アキ姉が小さく声を漏らす。 水をかけながら、私はアキ姉の赤くなった手を両手でそっと包み込んだ。 アキ姉の手は、いつも私よりずっと温かい。でも、今は水の冷たさのせいで、かすかに 震えているように感じられた。 「ハル」 「何」 「お前、冷たい奴かと思ってたけど、意外と過保護だな」 アキ姉が上から覗き込むようにして、ニカッと笑う。 耳元で揺れるシルバーのピアス。いたずらっぽい茶色い瞳。 顔が、近い。 「……冷やしておかないと、ハンドル握れなくなるでしょ。置いていかれたら困るから、ただの自己防衛」 私はわざと冷たい声を出しながら、赤くなっていく自分の耳を隠すように俯いた。 心臓が、厨房の機械の音よりもずっと大きく、ドクドクと自己主張を始める。 世界が滅びるなんて、どうでもよかった。 でも、もしあの日、アキ姉が私を助手席に乗せてくれなかったら。 私は今頃、あの狭い部屋で一人、冷え切ったレトルトを食べて、ただ死を待っていたはずだ。 こんな風に、揚げたてのポテトの匂いに包まれて、好きな人の手の温かさに胸を締め付けられることもないまま。 「よし、もう大丈夫」 私は手を離し、ぶっきらぼうにタオルを押し付けた。 アキ姉は「サンキュ」と言って手を拭くと、山盛りのポテトを抱えて厨房の床に座り込んだ。 「ほらハルも座れよ。世界で一番贅沢なマックだぜ」 私たちは冷たい床に背中を預け、ポテトをつまんだ。 口の中に広がる、塩辛くて熱い味。 「ねえアキ姉、このポテト、ちょっと塩かけすぎ」 「マジ? 私、濃い味派だからさ」 アキ姉が笑う。私も、小さく笑う。 外からは時折、世界が終わるのを告げる遠いサイレンの音が聞こえるけれど、このカウンターの裏側だけは、私たちの誰も邪魔できない特等席だった。
昼過ぎ、シスコ号は寂れた地方のファミリランドの駐車場に滑り込んだ。 ゲートの電子音は完全に死んでいて、マスコットキャラクターの古びた着ぐるみが、切ないほど無造作に地面に転がっている。 「お、ここ動物園も併設されてんじゃん。ハル、ちょっと寄ってこうぜ」 アキ姉は車を降りると、伸びをするように長い腕を頭の上で組んだ。 昨夜のマックでの火傷の跡は、もうすっかり引いている。 「動物園? 猛獣とか逃げ出してたらどうするのよ」 「そんときは私がシスコで撥ね飛ばしてやるよ。ほら、行くぞ」 アキ姉は私の手を引いて、鍵の壊れた入場ゲートをすんなりと潜り抜けた。 園内は、驚くほど静かだった。 人間の気配が完全に消え去ったコンクリートの通路を、初夏の強い日差しがじりじりと照りつけている。 「……あ、見て。本当に誰もいない」 ライオンの檻を覗くと、百獣の王は逃げ出すどころか、日陰で丸くなって退屈そうに寝息を立てていた。エサをくれる人間がいなくなって飢えているのかと思ったけれど、自動給餌器がまだ動いているのか、あるいは世界が終わる前に飼育員が山ほどエサを置いていったのか、動物たちは悲壮感もなく、ただのんびりと過ごしている。 私たちは、キリンの飼育エリアの前に辿り着いた。 網越しに見上げる、気の遠くなるほど長い首。 キリンは私たちが近づいても、逃げも騒ぎもしなかった。ただ、長いまつ毛のついた目を細めて、ふわぁ、と大きなあくびを一つ噛み殺した。 「……平和だね」 「だな。世界が終わるなんて、こいつらには関係ないもんな」 アキ姉は白い柵に肘を預け、キリンをぼーっと見上げていた。 その横顔を盗み見る。 いつもなら「おいハル、あいつお前みたいに間抜けな顔してんぞ」とか、何かしら茶化してくるはずのアキ姉が、今は驚くほど静かだった。 風に揺れる金髪。いつもより少しだけ、下がったままの口角。 サングラスをしていないアキ姉の茶色い瞳は、キリンを見ているようで、その実、もっと遠くの、何もない空間を見つめているように見えた。 胸の奥が、小さな針でチクッと刺されたみたいに痛む。 (あ……。この人、今、何を考えてるんだろう) 旅が始まってからずっと、アキ姉は私の前で完璧な「私を拉致った頼れるお姉さん」だった。 強引に私を連れ出して、エアコンが壊れた車で笑って、無人のコンビニで欲しいものを全部買い占めて。私の冷めきった心を、その熱い手のひらで全部強引に引っ張り上げてくれた。 でも。 アキ姉だって、21歳の、ただの女の子だ。 私よりほんの4年早く生まれただけの、隣の家に住む、寂しがり屋のヤンキーだ。 世界が終わる。みんな死ぬ。 その恐怖を、この人はどうやって噛み殺しているんだろう。 私は、アキ姉に笑わせてもらうばかりで、この人の「本当の顔」を何一つ知らないんじゃないか。 「……ねえ、アキ姉」 「んー?」 アキ姉は視線をキリンに向けたまま、生返事をした。 「アキ姉は……怖くないの?」 風が、私たちの間をすっと吹き抜けていった。キリンの足元で、乾いた草がカサリと音を立てる。 「何が?」 「世界が終わること。あと2日で、全部なくなっちゃうこと」 ずっと聞けなかった問いが、口からこぼれ落ちていた。 アキ姉は動きを止め、それからゆっくりと私の方を振り返った。いつも通りの、悪戯っぽい笑みを浮かべようとしている。でも、その口元は微かに引き攣っているように見えた。 「まさか。私が怖いわけないじゃん。シスコもあるし、ハルもいるし——」 「嘘つき」 私はアキ姉の言葉を遮った。遮ってから、自分の心臓が激しく波打っていることに気づいた。 「昨日のハイウェイで、タイヤが滑ったとき、アキ姉の手、震えてたよ。……マックで火傷したときも、本当は痛かったんでしょ。いつもそうやって、平気な顔して、私を子供扱いして……」 アキ姉の瞳が、微かに揺れた。 いつもの、余裕のあるお姉さんの仮面が、一瞬だけ剥がれそうになる。 私はアキ姉のTシャツの裾を、ぎゅっと片手で掴んだ。 この手を離したら、アキ姉がどこか遠くへ消えてしまいそうな気がしたから。 「教えてよ、アキ姉。……本当は、どう思ってるの」 キリンがもう一度、退屈そうに首を揺らした。 誰もいない動物園の中で、私たちだけの、少しだけ痛くて息苦しい沈黙が始まろうとしていた。 【次回】