昼間の動物園での気まずい空気は、夜の帳(とばり)がすべてを覆い隠してくれた。 それでも、車内の沈黙だけはいつもより少し重い。 シスコ号がたどり着いたのは、奇跡的に電気が生きていた、小さな寂れたコインランドリーだった。入り口の蛍光灯が、虫を呼び寄せるように薄暗くジジジと鳴っている。 「……ハル、雨に濡れた服、ここで乾かしちまおう」 夕方から降り出したにわか雨のせいで、私たちの服はしっとりと湿っていた。 アキ姉は私の制服の上着と、自分の派手なタンクトップを、まとめてドラム式の乾燥機の中に放り込んだ。100円玉を入れると、ゴトゴトと低い音を立ててドラムが回り始める。 ガラス越しに、私の黒い制服と、アキ姉の黄色い服が、まるでひとつの生き物みたいにぐるぐると混ざり合って回っている。 私たちは、プラスチックのベンチに少しだけ距離を空けて座った。 乾燥機から漏れる温かい風が、洗剤の匂いと一緒に私たちの足元を撫でていく。 「さっきさ……」 アキ姉が、ぽつりと言った。 乾燥機の音に消されそうな、小さな声だった。 「動物園で、怖くないのかって聞いたろ」 「……うん」 「怖えよ。めちゃくちゃ怖えよ、ハル」 アキ姉は自嘲気味に笑うと、膝の上に置いた自分の両手を見つめた。 「世界が終わるってニュースを見たときさ、頭が真っ白になって。隣のガレージに引きこもって、親父のシスコの中でずっと震えてたんだ。どうせ私の人生、今まで誰の役にも立たなかったし、このまま一人で、ガソリンの燃えカスみたいに消えてくんだなーって思ってた」 アキ姉のそんな声、聞いたことがなかった。 いつも豪快に笑って、私を引っ張ってくれるアキ姉が、まるで迷子の子どものように肩をすぼめている。 「私の親父さ、この車だけ残して、私が中坊のときに蒸発したんだよね。お袋もすぐに男作って出てった。だから、私には誰もいなかったの。誰の記憶にも残らない、ただのヤンキー。世界が滅びるって聞いたとき、正直、ちょっとホッとしたんだ。みんな一緒に消えてくれるんだ、って」 アキ姉はそこで言葉を切り、ゆっくりと顔を上げて私を見た。 蛍光灯の光に照らされたアキ姉の瞳に、乾燥機のグルグル回る光が反射している。 「でもさ……ガレージの隙間から隣の窓が見えたとき、お前がいたんだよ」 「私が?」 「おう。お前、今にも消えちゃいそうな顔してさ、スマホの光に照らされて、じっと部屋にいただろ。それ見たら……なんか、胸の奥がめちゃくちゃに熱くなってさ。シスコのエンジン、掛けなきゃって思ったんだよ」 アキ姉が、ベンチの上の私の手に、自分の手を重ねてきた。 やっぱり、驚くほど熱い。 「お前を助手席に乗せて、どこまでも走ってやりたいって思った。こいつを走らせる理由が、世界の最後に、やっと見つかった気がしたんだよ。……ハル。私はお前を助けたヒーローなんかじゃない。お前がいたから、私は世界の終わりに、前を向いて走れたんだ」 アキ姉の長い指が、私の指の隙間に滑り込んでくる。 ぎゅっと、壊れそうなものを確かめるように、強く握りしめられた。 「ハル。お前をただの『隣の女子高生』だと思ったことなんて、一度もないよ。私は、お前のガソリンになりたかったんだ」 頭の奥が、カッと熱くなった。 乾燥機の熱のせいじゃない。アキ姉の言葉が、私の心臓の真ん中に、直接火をつけたみたいだった。 冷めきっていた私の世界に、爆音を立てて突っ込んできた金髪のお姉さん。 何も考えていない自由人だと思っていた。私をからかって遊んでいるだけだと思っていた。 なのに、この人も、私と同じくらい孤独で。 世界の終わりに、お互いがお互いを必要として、今、ここにいる。 「……バカだよ、アキ姉」 私は溢れそうになる涙をごまかすように、アキ姉の手を思いきり握り返した。 「ガソリンなんて、そんな悲しいこと言わないでよ」 「あはは、そうだな」 アキ姉はいつものように笑ったけれど、今度の笑顔は、今までで一番優しくて、少しだけ泣きそうだった。 乾燥機が、ピーッと終了の音を鳴らす。 回り続けていた私たちの服が、ゆっくりと止まる。 世界が終わるまで、あと2日。 コインランドリーの温かい暗闇の中で、私たちの距離は、もう二度と離れられないところまで近づいていた。
コインランドリーを出た後、私たちは国道沿いの小さなビジネスホテルを見つけた。 フロントには誰もいなくて、鍵だけがずらりと壁に掛けられていた。アキ姉が適当に掴んだ鍵の部屋は、シングルベッドがひとつしかない、驚くほど狭い部屋だった。 「ツイン空いてなかったかー。まあいいじゃん、ハル、一緒に寝ようぜ」 アキ姉はいつもの調子でそう言って、Tシャツ姿でさっさとベッドの左側に潜り込んだ。 断る気力もなくて、私は制服のスカートを脱いで、アキ姉の隣に滑り込む。 狭い。狭すぎる。 シングルベッドの上で、私とアキ姉の身体は、ほとんど隙間なく密着していた。 私たちはお互いに背中を向けるようにして横たわっている。 部屋の電気を消すと、窓の外から薄暗い月光だけが差し込んできた。 静かだった。V8エンジンの爆音もない。アキ姉の豪快な笑い声もない。ただ、ゴト、ゴト、と、エアコンの壊れた室内で、私たちの呼吸の音だけが不自然に響いている。 (近い……っ) 背中越しに、アキ姉の体温がダイレクトに伝わってくる。 どく、どく、どく、どく。 アキ姉の、規則正しい心臓の音が、私の背骨を伝って脳裏に直接響いてくるみたいだった。 アキ姉の金髪から、コインランドリーの安い洗剤の匂いと、ほんの少しだけ甘い煙草の匂いが漂ってくる。その匂いを吸い込むたびに、私の肺が、胸の奥が、きゅーっと締め付けられるように痛む。 「……ハル、寝た?」 暗闇の中で、アキ姉が小さな声で呟いた。背中がかすかに動く。 「……寝てない」 「そっか」 それきり、アキ姉は何も言わなくなった。 ただ、布団の中で、アキ姉の大きな手がそっと伸びてきて、私の左手の甲に触れた。 指先が震えている。昨日の夜、コインランドリーで「怖えよ」と言ったときと同じ、不器用で、愛おしい震え。 私はその手を、拒まなかった。 拒むどころか、指を絡めるようにして、強く、強く握りしめた。 (やめてほしい) 心の中で、誰にともなく毒づいた。 こんなに強くて、こんなにあたたかい生きた音を、私に聴かせないでほしい。 こんなに優しい手の熱を、私に教えないでほしい。 世界が終わるなんて、どうでもよかった。 地球の未来がどうなろうと、私の知ったことじゃない。 学校に行かなくてラッキー、本当にその程度の気持ちだった。私の人生なんて、世界が滅びる前からとっくに終わっていたはずだった。 なのに。 「……っ、……」 奥歯を噛み締めても、小さな嗚咽が漏れそうになる。 アキ姉の手の熱が、私の冷めきっていた17歳の身体を、容赦なく内側から溶かしていく。 アキ姉の心臓の音と同調するように、私の心臓も、狂ったような速さでドクドクと脈打ち始めていた。 嫌だ。 死にたくない。 世界が終わってほしくないんじゃない。 この心臓の音が止まるのが嫌だ。 この匂いが消えるのが嫌だ。 明日が来たら、あと1日で、このお姉さんと離れ離れにならなきゃいけないなんて、そんなの絶対に耐えられない。 (神様なんていない。知ってる。でも、もしいるなら) 世界なんていくらでも壊していい。みんな消えちゃっても構わない。 だから、この狭いベッドの上だけ。私とアキ姉が手を繋いでいるこの空間だけ、永遠にそのままにしておいてよ——。 繋いだ手に、ぎゅっと力を込める。 アキ姉は何も言わず、ただ同じだけの強さで、私の手を握り返してくれた。 背中から伝わるアキ姉のぬくもりが、泣き出しそうな私を、静かに、優しく包み込んでいた。 世界が終わるまで、あと36時間。 私の17歳の心臓は、世界で一番静かに、そして激しく、世界の終わりを拒んでいた。 【次回】