バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が、シスコ号のフロントガラスを激しく叩きつけていた。 ガガッ……ギギギ……ッ。 金属が悲鳴を上げるような音を立てて、ワイパーが完全に停止する。それと同時に、ボンネットの隙間から白い蒸気が吹き上がり、V8エンジンの爆音が、ぷつりと途絶えた。 「嘘、でしょ……」 車内を包み込んだのは、雨音だけの圧倒的な静寂。 アキ姉は何度もキーを回した。キュルキュルとセルモーターは回るけれど、エンジンが目を覚ます気配は一切ない。 「……オーバーヒート。ワイパーのモーターも逝ったな」 アキ姉はキーから手を離し、ハンドルに額を押し付けた。 金髪の隙間から覗く耳が、心なしか小さく震えているように見える。さっきあれだけ格好良く立ち回ったアキ姉が、愛車の沈黙を前に、初めて途方に暮れたような背中を見せていた。 外は凄まじい豪雨だ。一歩でも出れば一瞬でずぶ濡れになる。 私たちは、真っ赤なシスコ号という、狭くて小さな鉄の檻の中に完全に閉じ込められてしまった。 窓ガラスは私たちの体温と雨の冷気でみるみる白く曇り、外の世界を完全に遮断していく。 世界に、本当に私たち二人きりしか残されていないような、錯覚。 「……ごめんな、ハル」 アキ姉が、ハンドルに額をつけたまま、くぐもった声で言った。 「あと少しで、海が見えるはずだったのに。私のせいで、こんなとこで足止めだ」 「何言ってるの。ここまで走ってくれただけで奇跡だよ」 私は助手席から身を乗り出し、アキ姉の肩をそっと叩いた。 アキ姉がゆっくりと顔を上げる。その茶色い瞳には、いつもの余裕に満ちた色はなかった。世界の終わりが、あと十数時間後に迫っている。車が動かないということは、ここで最期を迎えるかもしれないということだ。 「アキ姉。お菓子、まだ残ってるよ」 私はカバンから、かつて無人コンビニで手に入れた高級クッキーの箱を取り出した。 少しでも空気を和らげたくて、わざと明るい声を出して箱を開ける。 「ほら、食べよう。世界一不健康になって死ぬんでしょ?」 アキ姉は私を見て、一瞬だけ呆然とした。それから、堪えきれないといったように、ふっと小さく吹き出した。 「お前さ……本当に度胸ついたな。最初の日は今にも泣きそうな顔してたのに」 「誰のせいでこうなったと思ってるの。毎日毎日、限界突破させられてるんだから、嫌でも慣れるよ」 私はクッキーを一枚つまんで、アキ姉の唇の前に突き出した。 アキ姉は少し照れくさそうに、それを前歯で小さく齧りとる。サク、と静かな音が車内に響いた。 「……ん、うめえ」 「でしょ」 アキ姉がクッキーを咀嚼するのをじっと見つめる。 曇った窓ガラスのせいで、車内はひどく薄暗い。だからこそ、お互いの顔のパーツが、肌の質感が、いつもより鮮明に網膜に焼き付く。 アキ姉の手が、ゆっくりと伸びてきて、私の頬に触れた。 親指の腹が、私の目の下をそっと撫でる。 「ハル。私さ、本当にお前を連れ出してよかったのかな」 雨の音に混ざる、かすれた声。 「ここに引きこもってたら、お前はもっと……家族とか、大事な人と一緒にいられたんじゃないかって。最後の最後に、私みたいなヤンキーに付き合わされて、後悔してねえかって。時々、怖くなるんだよ」 アキ姉の指先から、切ないほどの熱が伝わってくる。 私は、アキ姉のその手の上に、自分の手を重ねて強く固定した。逃げられないように。 「後悔なんて、するわけないじゃん」 私はアキ姉の目をまっすぐに見つめ返した。 「あの部屋で一人でスマホ見て死ぬのを待つより、アキ姉の隣で、エアコンの壊れた車で文句言ってる方が、何百倍もマシ。……私を、ここに居させてくれてありがとう、アキ姉」 アキ姉の瞳が、大きく揺れた。 次の瞬間、アキ姉の長い腕が私の背中に回り、ぎゅっと強く抱きしめられた。 「……ハル」 「ちょっと、苦しいってば」 口ではそう言いながら、私もアキ姉の背中に両手を回し、その細い身体を思いきり抱きしめ返した。 トントン、トントンと、お互いの心臓の音が重なり合って響く。 外の豪雨の冷たさとは裏腹に、車内は、私たちの体温だけで息苦しいほど熱を帯びていた。 「雨、止んだらさ」 アキ姉が、私の肩口に顔を埋めたまま囁く。 「動かなくても、歩いてでも、海に行こうな。二人で」 「うん。絶対」 外の雨は、まだ止みそうにない。 けれど、この狭い檻の中は、どこよりも安全で、どこよりも甘い、私たちだけの世界の中心だった。 世界が終わるまで、あと、11時間。
夜、雨は嘘のように上がっていた。 雲の切れ間から覗く月光が、濡れたアスファルトを鈍く照らしている。 結局、シスコ号のエンジンは二度と目を覚まさなかった。 私たちは動かなくなった真っ赤な愛車のルーフ(屋根)に登り、二人で並んで腰掛けていた。毛布を一枚、二人で分け合うようにして肩から羽織って。 目的地の海は、もう目と鼻の先。ここからでも、かすかに潮の匂いが風に乗って運ばれてくる。 その時だった。 ————ゴゴゴゴゴゴゴゴガガガガガガッ!!! 地響きのような、悍ましい音が東の空から響いてきた。 遠く、遥か遠くの地平線が、一瞬だけ不自然なほど真っ赤に染まる。 「……ッ!」 私は思わず身を震わせ、毛布を強く握りしめた。 東京の方向だ。大都市が、文明が、私たちが生きていた世界の残骸が、物理的に崩壊していく音。あの頑丈な東京タワーですら、きっと今は飴細工のように折れ曲がっているのだろう。 終わりが、本物の「破滅」が、すぐそこまで足音を立てて迫ってきている。恐怖で歯の根が合わなくなりそうだった。 すると、視界が不意に真っ暗になった。 あたたかい、少し大きめの手のひら。 アキ姉が、私の両耳を後ろからそっと塞いだのだ。 ガソリンと煙草の匂いが、一瞬で私の鼻腔を満たし、大気が震える不穏な音を遠ざけていく。 「見んな、ハル。聴かなくていい」 アキ姉が、私の耳元で優しく呟いた。 耳を塞がれているから、アキ姉の声は私の頭蓋骨に直接響くみたいに、心地よく届く。 アキ姉は私の背中に胸をぴったりと押し当てると、小さな声で、ぽつり、ぽつりと歌を歌い始めた。 それは、カーステレオから流れていた古い洋楽のメロディだった。 アキ姉の歌は、お世辞にも上手とは言えなかった。英語の歌詞もめちゃくちゃで、ハミングに近いような、ただの鼻歌みたいな歌。 でも、その下手くそな鼻歌が、私の耳の奥で、世界が壊れていく恐ろしい音を綺麗に、完璧に消し去ってくれた。 (ああ……) アキ姉の胸の鼓動が、私の背中に伝わってくる。 ドク、ドク、と、世界の崩壊なんかよりもずっと力強く、生々しく刻まれる音。 不思議と、あんなに怖かった体の震えが、すっと収まっていくのが分かった。 遠くで街が崩れようが、世界が滅びようが、アキ姉が私の耳を塞いで、私のために歌ってくれている。この小さな毛布の中に、私の世界のすべてが詰まっていた。これ以上の安全地帯なんて、地球のどこを探したってありはしない。 アキ姉はしばらく歌うと、ふっと鼻歌を止めて、私の耳からゆっくりと手を離した。 東の空の轟音は、いつの間にか静まり返っていた。 「……下手くそな歌」 私はアキ姉の胸に頭を預けたまま、小さく笑った。 「うるせえ。これでも精一杯のラブソングだっつーの」 アキ姉も照れくさそうに笑って、私の頭をポンポンと叩いた。 「ラブソングなんだ」 「おうよ。世界の終わりに、私の世界で一番好きな女の子に捧げる、特等席のライブ」 さらりと、アキ姉はそう言った。 私の世界で一番好きな女の子。 その言葉が、私の胸の奥に深く、深く突き刺さって、もう二度と抜けないトゲになった。 私は振り返り、アキ姉の首に思いきり両腕を絡ませた。 アキ姉の驚いたような顔が目の前に迫る。私はその綺麗な茶色い瞳を見つめながら、生まれて初めて、自分の本心を言葉にした。 「アキ姉。私、アキ姉のことが好き。世界が終わるからじゃなくて、アキ姉だから好きなの」 アキ姉は目を見開いたあと、泣き出しそうな、でも世界で一番愛おしそうな顔をして微笑んだ。 「知ってるよ、バカ。……私も、お前じゃなきゃダメなんだよ」 アキ姉の唇が、私の額に優しく触れた。 おでこを出して笑い合ったあの昼下がりから始まった旅が、今、最高の答えに辿り着いた。 遠くの空はまだ赤く燻っている。 だけど、私たちの心は、これまで生きてきた17年と21年の中で、今が一番満たされていた。 世界が終わるまで、あと、5時間。 【次回】