世界が終わるまで、あと3時間。 動かなくなったシスコ号をあとにした私たちは、一枚の毛布を分け合って羽織り、手を繋いで暗闇を歩いていた。 すでに世界中の街灯も、ビルの明かりも、すべてが完全に死に絶えている。 なのに、足元が迷うほど暗くないのは、頭上のせいだった。 「……すご。何これ」 見上げた夜空には、数え切れないほどの星が、暴力的なまでの輝きで敷き詰められていた。 天の川がくっきりと白い帯を描き、大小の星たちがこぼれ落ちそうなほど瞬いている。東京の空しか知らなかった私にとって、それは息をのむほど恐ろしく、そして残酷なまでに美しい光景だった。 「遮る明かりが全部消えたからな。……地球が本気出すと、こんなに星って綺麗なんだな」 アキ姉が繋いだ手に少しだけ力を込めながら、ぽつりと言った。 私たちは坂道を下り、ついにその場所へたどり着いた。 ざざん、ざざん、と、闇の向こうから規則正しい波の音が聞こえる。 砂浜を踏みしめる足音が、静かな夜に響く。 私たちがずっと目指していた、最後の目的地。誰もいない、終わりの海。 私たちは波打ち際から少し離れた乾いた砂の上に、毛布を広げて並んで座った。 冷たい夜風が潮の匂いを運んでくる。アキ姉は私の肩を引き寄せ、自分の体にぴったりと密着させた。 「な、ハル。シスコは途中でリタイアしちゃったけど……約束通り、海、来ただろ?」 「うん。合格。アキ姉、最高のドライバーだよ」 私はアキ姉の胸に頭を預け、目の前の水平線を見つめた。 空の向こう、宇宙の深淵から、あの「世界を終わらせる光」がじわじわと近づいているのが分かる。星々の輝きに混ざって、ひと際大きく、妖しく輝く星。あと数時間もしないうちに、あの光がこの海を、地球を、そして私たちを包み込む。 でも、不思議と恐怖は一ミリもなかった。 アキ姉の体温が、私の背中を、お腹を、指先を、これ以上ないほどあたたかく満たしてくれているから。 「ねえ、アキ姉」 「ん?」 「私ね、アキ姉に出会えて、一緒に逃げて、本当に幸せだったよ」 私の言葉に、アキ姉の胸が一瞬、ドクンと大きく跳ねた。 アキ姉は何も言わず、私の顎をそっと指先で持ち上げた。 目の前に、大好きな人の顔がある。 星の光を反射して、アキ姉の瞳が潤んでいるのが見えた。いつも強がって、ヤンキーのフリをして、私を守ってくれたお姉さん。 「ハル。お前が私の名前を呼んでくれるたびにさ……私、自分がここに生きてていいんだって、初めて思えたんだ。私の世界の終わりを、お前が一番綺麗にしてくれた」 アキ姉の顔が近づいてくる。 静かに重なった唇は、驚くほど柔らかくて、切ないくらいに熱かった。 目を閉じると、波の音と、アキ姉の呼吸の音だけが、世界のすべてになった。 唇が離れたとき、私たちはどちらからともなく小さく笑い合った。 お互いの目から、一筋の涙がこぼれて、砂の中に消えていく。 「最後まで、一緒にいようね。アキ姉」 「当たり前だろ。地獄まで心中ドライブだ」 アキ姉は私の手を恋人繋ぎでがっちりと握りしめ、そのまま私たちの手をご自身のポケットに突っ込んだ。 東の水平線の向こうから、星たちの輝きを全て塗りつぶすような、圧倒的で、あまりにも綺麗な純白の光が、ゆっくりと溢れ出し始める。 私たちは、その光から目を逸らさなかった。 迫り来る終わりの瞬間を、お互いの体温を、心臓の音を、しっかりと確かめ合いながら。 「大好きだよ、アキ姉」 「私も。大好きだよ、ハル」 光が世界を包み込む。 その最後の1秒まで、私たちの17歳と21歳の心臓は、確かに、誰よりも激しく生きる歓びを刻んでいた。 小惑星衝突の凄まじい熱線と衝撃波、そしてその後に訪れた気の遠くなるような時間の経過。 ―――――――――――――――――――――――― 衝撃波のあと、数百年が過ぎた世界 そこは、かつてハイウェイと呼ばれていた場所だった。 小惑星の激突によって世界のすべてが燃え尽き、太陽の光が遮られた長い「衝突の冬」が終わり、再び地球に穏やかな光が戻ってきてから、すでに数百年という歳月が流れている。 かつてアスファルトだった地面は完全に崩壊し、細かい砂と、どこからか飛来した未知の植物の種が分厚い絨毯のように覆い尽くしている。 その「緑の海」の真ん中に、それは静かに佇んでいた。 赤を忘れた、鉄の骸(むくろ) シスコ号だった。 自慢だった鮮やかな赤い塗装は、あの日浴びた猛烈な熱線によって一瞬で焼き剥がれ、今は全体がくすんだ赤茶色の錆(さび)に覆われている。 フロントガラスも、サイドミラーも、あの激突の衝撃で粉々に砕け散り、今は車体の中に乾いた砂と、小さな青い花を咲かせるツタ植物が入り込んでいた。 持ち主を失い、動かなくなってから何百年。 それでも、その無骨で頑丈なアメリカ製の鉄の骨組み(フレーム)だけは、原型を留めたまま、意地を張るようにそこに残っていた。 アキ姉が何度も叩いたハンドルは、すっかり錆びてツタが絡みついている。 ハルが深く背中を預けていた助手席のシートは、とっくに風化して骨組みだけになっていた。 1100馬力の静かな眠り かつて2人の恐怖を、そして世界の崩壊の音を力ずくで掻き消してくれたV8エンジン。 いまやボンネットの隙間から這い出たシダ植物の葉が、冷たくなったシリンダーブロックを優しく包み込んでいる。 爆音を響かせてハイウェイを裂くように走っていた怪物(モンスター)は、いまやこの新しい原始の地球の、ただの「静かな一部」になっていた。 シュウ、と初夏の風が吹き抜け、シスコ号の車内に咲いた青い花を揺らす。 人間が絶滅し、新しい生命が芽吹き始めたこの地球で。 錆びつき、朽ち果てた真っ赤なアメ車は、かつて世界の最後に、確かにここに「命の熱」が存在していたことを証明する、たった一つの美しい化石のように、静かに眠り続けている。
エピローグ ……すべてが、真っ白だった。 痛みも、寒さも、世界を揺るがしていたあの轟音も、何もかもが消え去った空間。 私はゆっくりと目をあけた。 「……あれ?」 自分の手を裏表にして眺めてみる。 17歳の私の身体はそこにあるけれど、なんだか少し透き通っているような、実体がないような、不思議な感覚だった。制服のスカートに触れても、布の感触がひどく曖昧だ。 世界は本当に終わってしまった。地球も、海も、学校も、全部あの光の中に消えた。 だけど、私の意識はこうしてまだ、ぽつんと宙に浮いている。 「……ハル」 背後から、聞き間違えるはずのない、大好きな声がした。 振り返ると、そこに彼女が立っていた。 金髪のベリーショート、耳元のシルバーのピアス。 アキ姉も、私と同じように少しだけ身体の輪郭がぼやけて、光の粒みたいにきらきらと輝いている。 「アキ姉……!」 私は駆け寄り、アキ姉の胸に飛び込んだ。 身体は透き通っているはずなのに、お互いがぶつかり合った瞬間、あのコインランドリーの夜、狭いベッドの夜、ずっと私を温めてくれた「アキ姉の熱」だけは、生々しいほど確かに私の全身に伝わってきた。 アキ姉の長い腕が、私の背中に回る。ぎゅっと、強く抱きしめられる。 「あはは、やっぱりお前もここにいたか。寂しくなくてよかったわ」 アキ姉はいつも通り、ケラケラと悪戯っぽく笑った。 「ここ、どこなのかな。天国?」 「さあな。神様も予定が狂って、私たちの魂だけ処理しきれずに残しちゃったんじゃねえの?」 アキ姉が周囲を見渡す。 真っ白で、上下も左右もない、何もない空間。 だけど、アキ姉が「よし」と小さく呟いて指をパチンと鳴らした、その瞬間だった。 ドクン、と空間が波打った。 私たちの足元から、真っ白だった世界に、鮮やかな「赤」がじわじわと染み渡っていく。 それは見覚えのある、1960年代のクラシックカーのボディの色。 ガガガ、ゴゴゴゴゴ……ッ!! 何もないはずの空間に、あの猛烈で、不器用で、愛おしいV8エンジンの重低音が響き渡った。 私たちのすぐ横に、あのハイウェイで壊れたはずの「シスコ号」が、ピカピカの状態で姿を現したのだ。エアコンは相変わらず死んでいそうだけど、エンジンはこれ以上ないほど元気に、爆音を上げてアイドリングしている。 「嘘……シスコ?」 私が目を見開くと、アキ姉はニカッと白い歯を見せて笑った。 「言ったろ、ハル。私は最後まで私のルールで走るって。世界が終わったからって、私たちのドライブが終わる理由にはなんねえよ」 アキ姉は運転席のドアを開け、ひらりとシートに滑り込んだ。 そして、助手席のドアを内側からカチャリと開けて、私を見て片目を瞑る。 「ほら、ハル。早く乗れよ。助手席、空いてんぞ」 私は溢れそうになる嬉し涙を手の甲でゴシゴシと拭うと、最高の笑顔で助手席へと飛び込んだ。 ドアを閉める。 窓を全開にする。 もう世界なんてどこにもないけれど、私たちの前には、どこまでも、どこまでも続く、真っ白で新しい「これからの世界」が地平線の向こうまで広がっていた。 「アキ姉、次の目的地は?」 「決まってんじゃん。誰も行ったことのない、世界のその先だよ」 アキ姉がアクセルを思いきり踏み込んだ。 真っ赤なシスコ号が、爆音を上げて光の中を疾走し始める。 全開の窓から吹き込んでくる風が、私の前髪を激しくめくり上げ、おでこを露わにする。 「あはは! ハル、またおでこ全開じゃん! やっぱり可愛いな!」 「もう! アキ姉のバカ! スピード出しすぎ!」 私たちは大声で笑い合いながら、繋いだ手を決して離さないまま、二人だけの永遠のドライブへと、新しく走り出した。 Last Drive My Dear 完