時は正中二年の送り火灯る頃。世は二十数年程前の徳政令の混乱を未だ引き摺った儘であり、此の俗世には八方を満足さする秘策や総ての者が救われる希望などは在り得ないという失望が拡がっていた。彼方には社会への不安故に厭世の思想に傾倒する者あり、此方には仏の教えを巡りて発する争の焔あり、其は正しく末法の泥濘なり。 彼の将軍の威光を笠に着た御家人や地頭らの苛斂誅求は年を追うに伴れ重みを増すばかりで、弱り目に祟り目という奴だろうか、重ねて襲い来たる疫癘は坂東の草の根を枯らし尽くして往くようだ。 鎌倉の世、其の辻という辻には死を待つ乞食やら非人が溢れ、如来の救いを請う念仏の声さえ荒れ狂う雷雨の囁きに掻き消されて久しいのである。 その夜もまた野犬の遠吠えさえ絶え果てた不毛の村落の礫質土を、冷え冷えとした長雨が叩いていた。人気の無い暗い路地を走り抜けてゆく者が独り居り、疎に、草鞋と砂利の擦れる不快な音色が混じる。其の呼吸は乱れ、表情は焦燥の中に在ると見る。 込み入った裏通りに入って往く程に音の鼓動が遅くなっていくのは、ツグモの横丁に住み着いた不成者共から身を隠す為か、或いは単に疲労によるものか。彼が荒屋の戸に手を掛ける様子は、荒くれ者然とした容姿からは想像もつかない程に丁寧なものであった。 「...梓、おるか。帰りが遅れて済まなかった。」 扉の先では未だ灰色の雨が降り続いているが、しかし其の声は鋭く低く、反響を生じるかのように渡ってゆく。けれど答えは返らぬものだから、此れは何時もの事だと、我が弟分は眠りにつき病に抗っているだけだと、彼は自己暗示を掛けるように解す。 五助という剛腕たる大男、その腹違いの弟である梓には昔から病弱なところがあった。故に五助は常々梓の事を気に掛けて居たのであるが、最近は彼の心にも一種疲弊のようなものが生じ始めていた。 元服にも達さぬ無辜の命が、其の半生の殆どを病床で過ごしているのだ。界隈では度胸番長と恐れられる第一級の悪党でありながらも、彼は最早弟が衰弱する姿を見ては居られなかったのだ。内心は到底、穏やかであるとは考えられぬ。恐らくは今も静かな狂気が蠢いている事だ。しかし五助の顔つきには、どこか諦めたような落ち着きがあった。 彼は時々考えるのである。泥の被った此の荒屋での生活を何時迄続ける事が出来るだろうかと。彼は僅かな宋銭を筵にばら撒き、静かに語り出す。 「一つ、二つ、三つ...。こいつはひでぇ、殆ど鐚銭じゃねぇか。これじゃあ薬種屋の親父が受け取ってくれるのは精々二割程度だろうかね。」 青黒く変色した不揃いの銭を見つめながら、五助は血の滲んだ右の拳を握りしめる。其れは、昼間地頭の代官に命じられるがままに年貢の納められぬ百姓の家に押し入り、数少ない家財を叩き壊して分捕ってきた「手間賃」の成れの果てである。 手間賃とは言えども、別に正当な給与を与えられている訳でもない。奪い取ってきた石鍋や穀物などを売り払って得た宋銭の中で、幾らか混じっていた価値の低い悪銭ばかりを体よく押し付けられたに過ぎない訳だ。 しかし此れでは梓に飲ませる煎じ薬の一つも買えやしないと、小さく嘆きを溢す。命を危険に晒し、人の道や徳というものを外れた稼業に手を染め、之程の苦労をしても尚、弟一人満足に生かせられないのか。彼の言葉は、無力感の表出というよりかは世界に対する絶望の囈言に近かった。 ふと、窓の外を見る。雨は未だ降り止まぬ。今年は例年に比べ随分と秋の長雨が長引いているようで、百姓らが穂発芽やら糸状菌やらの事を随分と気にして騒いでいるのをよく耳にする。唯でさえ暮らしが苦しいというのに、重ねて飢饉など起ころうものなら堪ったものでないが、彼にはただ今年も生き永らえますようにと祈る事しか出来なかった。 自らの不甲斐無さ故に弟を、最後の家族を失うのは、これ以上なく耐え難いのだ。尤も、人道を外れた職に就き、多くの人を苦しめてまで誰かを救おうとすることが本当に正しい事であるのかについては、彼には全く検討が付かないのであったが。 或いは、そんなものは完全な自己満足なのかも知れぬ。此の不可視なる病魔と餓えの前には五助の剛腕も冬の枯れ木同然で、知恵や勇気なども全く役に立たない。そんな、理不尽なほどに雄大で、争う事すら許されぬ自然、又は世の摂理に最後まで抗ったという誇りを欲しているのだろうか。 そうでなければ良いのだが、と溢す。とはいえ、梓を徒に生き永らえさせ、病の苦しみの檻に閉じ込め続ける事は本意ではないのであるが。灰を被って燻っていた囲炉裏の湿った薪が、とうとう静かに弾ける。 「叶うならば、何らかの奇跡により病が忽ち癒え、また昔のように...。」 言いかけて、辞めた。梓の痩せこけた額に張り付いた念仏札を見て、奇跡など庶民の身の上には到底降ってこないのだと思い出した。今は亡き母が言うには、病とは総て疫神や物の怪が取り憑いて生じるものであり、都の武士は加持祈祷を行う事で病を癒すのだと。 しかしそのような金も無い五助に出来たのは、かつて時宗の聖に施された決定往生の札を気休めばかりに乗せてやる事くらいであった。我々貧しき民には、神や仏に縋る蜘蛛の糸さえ満足には与えられないのだと、諦めたように息を吐く。 彼の方を見遣ると、穴ボコ虫喰いの開いた古びた札が力無く隙間風に揺らめいているのが見える。それが我々の未来を、揺らぐ心を暗示しているかのように感じられ、どうにも居ても立っても居られなくなりそうだ。梓の額に手を翳す。彼の病状はただならぬ途にて、熱った肌は土色に変色しているかのようで、悪化の一途を辿っているのは明白であった。 其の時、ふと戸の軋む音が聞こえた。 「五助や、入るぞ。」 戸口の障子を細く開いてぬうと顔を出したのは、隣家に住まう老いさらばえた百姓の作蔵であった。彼の瞳には、絶望に慣れ切った者によく見られるような燻んだ光が灯っている。けれども今日ばかりは少し焦ったような、何処か普段通りではない事情を其の顔色から匂わせているのが感じられた。 「...作蔵か。済まぬが用なら後にせい。今は梓が危篤であるのだ。」 「若造や、せめて老人の話くらいは聞け――まさに用事とはそのことよ。お前さんは筑波の夜叉山についての噂は聞いたか。」 巫山戯ている様な調子でも無く、至って真面目な口調で語り出す老人。しかし五助にとって彼の話はあまりに信じ難い、荒唐無稽なものだった。 「夜叉山の噂、だと? 彼処は妙な石が出るとかで古来より禁足地だっただろう、今更噂が出回る余地が何処にあるというのだ。」 そう。夜叉山はかつてより禁入地として定められており、少なくとも二百年は人が出入りした形跡も無いと言う。であるならば夜叉山についての噂など、実際に山に入ってもいない人間が外側から想像だけで紡ぎ上げた出鱈目に過ぎぬはずである。 「ああそうだ。しかしそれが、もし地頭の手下共が僧侶らに隠れて山の奥地に出入りしていたとなれば、どうだ。」 作蔵は雨音を警戒するように声を潜め、荒屋の奥へと進んでいく。その言葉があまりに真剣な調子なものだから、彼はつい息を呑んでしまう。 「それで、その奥の廃寺に、お上の目を盗んで隠れ住む『生き神』がおられると聞く。姿は十二、三の幼き尼公のようだが、その額には一本の白き角があり、ひとたびその手をかざせば、いかなる業病も忽ち快癒し、不具の者さえ元の身体に戻るというのだと。...どうやら、酔いに任せて夜叉山の調査結果を自慢げに大声で語っちまった間抜けが居たらしくてな。」 其れは、まるで御伽話のように都合の良すぎる物語。五助の目が、鋭く細められる。 「...ふん、胡散臭い話だ。この末法の世に神仏の類がまだ居座って居るものか。どうせ結局は社寺の勧進か、さもなくば人を惑わす狐や狸の妖怪であろう。大体――」 五助の口ぶりが、途端に憎悪の念を孕む。その裏には、奇跡を信じられなくなった絶望が隠れているのか。 「大体、そんな生き神が居るとしたら何故御家人は黙っているのだ。去年だって地頭らを出し抜こうと散々騒ぎを起こした事だろう、強欲な御家人達が此のような話を聞いて黙っている筈がなかろう。」 黙っておくものか――と、作蔵の声が力強く、五助の言葉を遮るように響く。彼の声もまた、共鳴するかのように怒りの色を現してゆく。 「だからこそ、奴らはその角とやらを我が物とするために既に人足を集め始めて居るのだ。きっと儂等も残り一週間もすれば巻き込まれるに違いねぇ、あれだけ大規模な計画を打ち立てて居るのだから、日頃から地頭に汚れ仕事を押し付けられてるお前さんは尚更だ。」 重ねて言うには、御家人や幕府の者共は彼の仙獣の角から不老不死の妙薬が作れるものだと信じ切っていると。そして、あまり老人の情報網を見縊るものではない、と。 五助の胸の中には、どうしようもない焦りが渦巻いていた。坐して待っていれば、これ程有り難き好機さえ喪って了うかも知れぬ。お上――鎌倉の権力者たちは、庶民から米を奪い、命を奪い、今度はくだらぬ私欲の為僅かな救いの蜘蛛の糸さえ盗もうとしているのかと。 されど反対にまた躊躇いが無いわけでも無い。そもそも噂の真偽が確かで無い上、仮に誠であったとしても勝手に生き神とやらに接触を図るのは権力者らに対する明確な反逆行為となる。奴らが山の周りの警備を益々強めているのであらば、山道とはいえ隠れ往くには厳しい事など容易に想像がつこう。しかし――。 「...狐だろうが、化け物だろうが構わねえ。」 梓の苦しそうな顔色が、此の儘ではならぬという強い焦燥が五助に極端な決断を強いたのである。五助は筵を剥ぎ取り、骨と皮ばかりになった弟を背中に背負い、一本の麻縄で己の身体に固く縛り付けた。梓の吐き出す熱い息が、伍介の首筋に触れる。それはまるで、命の砂時計が刻む最後の音のように響いていた。 「もしその生き神が偽物ならば、此の太刀で奴の喉笛を断ち切ってやるのみよ。」 雨は尚も、月夜の下に降り続く。太刀の赤錆は雨故か血故か、今晩もまた一層深く刀身に染み込んで往きそうである。さあ、目指すは暗雲に隠れた夜叉の山。
とあるキャラクターの過去編です...とはいえ第1話、プロローグ的なやつなので当の本人はまだ出てきません(全部で4話か5話の予定です) いつも通り駄文の書き散らしですのでご注意... ってか学校の課題多くて本当に大ピンチで執筆進みません、なんなんですか実験レポート最低2万文字+LaTeXのTikZで図表とかグラフ自作して貼り付けろって ちなみに締め切り明後日の朝(2026/5/25)ですたすけてください