1953年7月26日、若者を主体とする123人の反バティスタグループが、オリエンテ州(当時)のサンティアゴ・デ・クーバにあるモンカダ兵営を攻撃した (7月26日運動)。しかし、僅かなミスから奇襲は失敗し、政府軍に包囲されてしまう。彼らの一部はその戦闘で死亡し、生存者も程なくして逮捕されたが、政府軍は逮捕者の多くを見せしめとして虐殺した。 しかし、弁護士フィデル・カストロとその弟ラウル・カストロらのリーダー格は、高度に政治的な裁判にかけられた。フィデル・カストロは裁判上で「歴史が私に無罪を宣告するであろう」と演説を展開したが、判決では15年の刑期が宣告された。 ほかの者も一様に長い刑期を宣告されピノス島(現・青年の島)にあるモデロ刑務所に収監された。1955年の選挙の後、5月にバティスタは恩赦でモンカダ兵営襲撃犯を含む政治犯をすべて解放した。 カストロ兄弟は程なくメキシコに亡命、同じ境遇の追放キューバ人を糾合し、再度バティスタを倒すために戦う準備を行った。このときカストロが組織した集団はモンカダ襲撃の日を取って「7月26日運動」(M26)と呼ばれる。 メキシコ潜伏中にカストロはアルゼンチン人で放浪好きな医師チェ・ゲバラに出会う。ゲバラは彼らの軍隊に加わった。メキシコでゲリラ戦の訓練を行った彼らは1956年11月、現地調達した8人乗りのプレジャーボート「グランマ号」に、合計82名で乗り込みメキシコを出発した(グランマ号上陸作戦)。 1956年12月2日、カストロら82名はキューバ東海岸に上陸[2]。カストロは、事前に報道機関等にキューバへ戻ることを公言していたため(キューバにいる同志の呼応をねらった)、祖国に上陸した途端、たちまちバティスタ軍に包囲され多くの仲間を失ってしまう。何名が生き残ったかに関しては論争となっているが、12名を残して全てが上陸後の最初の戦闘で殺されるか捕らえられるかした。捕らえられたゲリラのうちの数人は特別裁判の後処刑された。カストロ兄弟及びゲバラは生存メンバーであった。残った12人はキューバ東南部のマエストラ山脈に逃げ込みゲリラ活動を開始する。なお、彼らの上陸した場所の付近は当時オリエンテ州の一部であったが、後に「グランマ州」と名づけられた。 グランマ号上陸作戦で敗走して山で点呼を取っていたゲバラの前で「これだけ生き残ればバティスタの野郎もおしまいだ!」と意気揚々に語っていたフィデル・カストロを見たゲバラは、最初絶望の余りフィデルの気が触れたのではないかと心配したが、これはフィデルがアメリカのマスコミ・世論を味方に付けるための布石であり、フィデルは1957年にアメリカ人ジャーナリストからのインタビューを受け、それが「シエラからの報告」としてニューヨーク・タイムズに掲載され、アメリカ人は革命軍に同情や好意を抱くようになった。アメリカ政府はバティスタ政権への武器の禁輸を決定するも。その後も反バティスタグループはゲリラ戦を2年間に渡って続けた。 1958年に革命軍は攻撃を始めた。彼らは「カラム(columnas)」と呼ばれた2つの部隊に別れて進軍した。片方のカラムであるオリエンテ州(現在、サンティアゴ・デ・クーバ、グランマ、グアンタナモおよびオルギンの4州に分割されている)の4つの前線はフィデル・カストロ、ラウル・カストロおよびフアン・アルメイダによって指揮された。もう一方のカラムはチェ・ゲバラおよびカミロ・シエンフェゴスの指揮下にあり、西方と首都ハバナへ進軍した。 カミロはヤガイェイの戦いで大きな勝利を収め、「El heroe de Yaguajay」(ヤガイェイの英雄)と呼ばれるようになった。またゲバラの部隊もサンタ・クララでの決戦で勝利を勝ち取った。この戦いはオリエント州軍への増援部隊と物資を載せた列車を停止させたことで有名である。ゲバラとカミロの部隊はハバナ入城時にコロンビア兵営(現在「シウダ・リベルタ(Ciudad Libertad, 自由都市)」と呼ばれる)とラ・カバナ(現在「モロ」と呼ばれる)を占領した。 政府軍の敗北が決定的となった1958年12月31日夜、バティスタはコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった1959年の元日、クバーナ航空機でキューバを脱出し、独裁者のラファエル・トルヒーヨ率いるドミニカ共和国へ亡命した。数時間後、政府軍の将軍カンティーヨが「臨時政府」の成立を宣言したが、カストロはこれを認めずカミロにハバナ突入を命じた。まもなくハバナは革命軍が制圧し、8日にはカストロがハバナ入りし、名実ともに革命軍の勝利が確定した。