こんにちは。ボカ郎です。これから、10話にかけての短編小説を作りました。これはその記念すべき一話です。もし、気に入りましたら、星やハート、そしてフォローをしてくれると嬉しいです。また、今後、好評でしたら、続編、またはアニメ化、もしくは新小説を作るかも知れません。もしよかったらこんな初心者ですが、応援していただけるとありがたいです。
ネオンサインの毒々しい原色が、夜の街を暴力的なまでに照らしていた。 巨大なホログラム広告が宙を舞い、人工の光が路地裏の隅々にまで行き渡る。この街、ルミナリアにおいて「闇」は駆逐すべき敵であり、完全な夜などもう何百年も存在しなかった。人々は、空が暗くなることへの恐怖を、きらびやかな人工灯で覆い隠して生きている。 そんな喧騒から逃れるように、路地裏の奥深くに佇む古びた時計店。 店主の青年・ルカは、作業机のランプの灯りの中で、じっと手元を見つめていた。 「……やっぱり、動かないな」 ルカがピンセットでつついているのは、祖父の遺品である、奇妙な懐中時計だった。 普通の時計なら、文字盤には1から12までの数字が並んでいる。しかし、この時計には数字がなかった。代わりに描かれているのは、満ち欠けする金の球体の意匠。そして、針は「新月」を指したまま、まるで時間が凍りついたようにピクリとも動かない。 ルカは溜息をつき、眼鏡を外して目元を揉んだ。 ふと、机の傍らに置かれた埃っぽい古文書に目が留まる。それもまた、祖父が遺した偏屈なコレクションの一つだった。 パラパラとページをめくると、色褪せたインクで、今の世界からは想像もつかない奇妙な記述が躍っていた。 『かつて、天には「月」と呼ばれる美しい天体が存在した。それは自ら光る人工の灯りとは違い、太陽の光を優しく受け止め、地上の闇を穏やかに照らす銀の石であった。人々は年に一度、その輝きが最も満ちる夜に集い、酒を酌み交わし、歌を歌って月を称えた。それを【月見の宴】と呼ぶ――』 「月、か……」 ルカは窓の外の空を見上げた。 高層ビルの隙間から覗く夜空は、街の光が反射して、濁った紫色に霞んでいる。その中心には、言われてみれば確かに、巨大な「灰色の岩の塊」が浮かんでいた。 光を失い、ただの死んだ石ころとなって空にへばりついている影。それが、かつて世界を魅了したという月だった。今やそれを見上げる者など誰もいない。ただの宇宙のゴミだと、学校の教科書にはそう書いてあった。 「宴、なんて、おじいちゃんが生きてたら大笑いして喜びそうな話だ」 ルカが自嘲気味に呟いた、その時だった。 コツン、と。 静かな店内に、窓を叩く小さな音が響いた。 風の悪戯かと思ったが、音は規則正しく続く。コツン、コツン、と。 不審に思ったルカが席を立ち、窓のカーテンを開けた。 「……え?」 ルカは思わず息を呑んだ。 窓の外、狭い鉄製のバルコニーに、一人の少女が座り込んでいたのだ。 ひどく汚れた白いドレス。夜の街のネオンとは明らかに違う、どこか儚い銀色の髪。そして何よりルカを驚かせたのは、彼女の額の左右から、小さな、半月のような形をした美しい角が生えていることだった。 少女は寒さに震えるように身を縮めながら、うつむいたまま、弱々しい声で呟いた。 「……お腹が、すきました……。それに、街が、眩しすぎて……」 それが、すべての始まりだった。 人工の光に埋め尽くされた世界で、誰も見向かなくなった「廃れた月」の物語が、静かに動き出そうとしていた。 「……え?」 ルカは慌てて窓の鍵を開け、ガラス戸を引いた。滑り込んできた夜風は、人工的なビルの排熱を含んで生温かい。しかし、目の前の少女の身体からは、まるで冬の朝のような、ひんやりとした冷気が漂っていた。 「おい、大丈夫か? 今中に入れるから……」 ルカが手を差し伸べた瞬間、少女は力尽きたように前のめりに倒れ込んできた。 抱き止めたその身体は、驚くほど軽かった。まるで、中身の詰まっていないガラス細工を抱えているかのような心許なさだ。 ルカは彼女を店内の古いソファに横たえると、すぐに奥の台所から温かいスープを持ってきて口元に運んだ。 数口、おそるおそるスープを飲み干すと、少女の頬にほんのりと赤みが差した。彼女は長い睫毛を震わせ、ゆっくりとその瞳を開く。それは、濁った夜空には決して存在しない、澄み切った銀色の瞳だった。 「……助けてくれて、ありがとうございます」 少女はかすれた声で言い、自身の頭に手を当てた。 「驚かせてしまいましたよね、この角。……私はルナ。人間ではありません。あなたたちが『月』と呼ぶあの星の、最後の眷属です」 「月の……眷属?」 ルカは思わず、机の上の古文書と、窓の外に浮かぶ灰色の岩塊を見比べた。 「まさか。月はただの死んだ星で、妖精なんておとぎ話の……」 「死んでいません!」 ルナは強い口調で遮った。しかし、すぐに悲しげに視線を落とす。 「でも……半分は本当です。私たちは、人間の『心』を食べて生きる光。美しいと見上げられ、愛されることで輝く存在。けれど、この街の光が夜を奪ってから、誰も月を見なくなりました。忘れ去られた月は力を失い、光を失い……眷属の仲間たちも、みんな消えてしまいました」 彼女の透き通るような指先が、自身の胸に当てられる。 「私だけが、かろうじて地上へ落ちて生き延びました。でも、もう限界です。このまま誰も月を思い出さなければ、あの星は完全に崩壊して、宇宙の塵になって消えてしまう……」 ルカは言葉を失った。 にわかには信じられない話だった。しかし、彼女の放つ儚い気配と、その目から流れる銀色の涙が、これが嘘ではないと告げていた。 その時、カチリ、と小さな音が響いた。 ルカが振り返ると、作業机の上で、それまで頑なに動かなかった「月の時計」の秒針が、ほんの1ミリだけ、確かに動いていた。 「それは……」 ルナが目を見張る。 「『月見の時計』……? まだ残っていたのですね。それを動かせるのは、月を愛する心を忘れていない人だけ。……あなたなら、あの宴を、始められるかもしれない」 「宴って……まさか、古文書にあった【月見の宴】のことか?」 「はい。もう一度、世界に月の美しさを思い出させるための、最後の儀式です。世界中から月を愛する者たちを集め、最高の宴を開くの。そうすれば、月は必ず光を取り戻します」 ルナはソファから立ち上がり、小さな手をルカに向けて差し出した。 その手はまだ少し震えていたが、銀色の瞳には強い決意の光が宿っている。 「お願いです、時計職人の人間さん。私に力を貸してください。もう一度、あの空に本物の夜を、美しい月を呼び戻すために」 ルカは差し出された手を見つめ、それから窓の外の、光に押し潰されそうな夜空を見上げた。 ずっと、この不自然に明るい世界に息苦しさを感じていた。祖父が遺したあの時計と古文書が、なぜか愛おしかった。その理由が、今、目の前の少女と繋がった気がした。 「……ルカだ」 青年は自嘲気味に微笑み、その小さな手をしっかりと握り返した。 「ルカ・ウェルサ。時計の修理なら慣れてる。……壊れかけた月の直し方は知らないけど、君が教えてくれるんだろ?」 ネオンの光が乱反射する路地裏の片隅で、止まっていた運命の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めた。