## 「いつからとこれから」 ### 第一章 新人言語聴覚士、西宮琥陽 春の光が病院の窓から差し込んでいた。 二十四歳の新人言語聴覚士、西宮琥陽(にしのみや こはる)は、白衣の胸ポケットに入れたメモ帳を何度も確認していた。 「失語症評価……構音検査……発達検査の準備……」 小声で読み上げる。 文字を目で追うたびに、言葉がゆらぐ。 行が飛ぶ。 文字が入れ替わる。 「……またか」 琥陽は小さくため息をついた。 彼にはディスレクシアがあった。 読み書きに困難を抱える発達障害である。 さらにADHDもある。 集中力の波が激しく、忘れ物も多い。 予定管理も苦手だった。 学生時代は何度も失敗した。 教科書を読むのに人の何倍も時間がかかる。 レポートは締め切りぎりぎり。 実習中も記録を書くのに苦労した。 それでも彼は言語聴覚士になった。 理由は単純だった。 「自分と同じように困っている子どもたちの力になりたい」 その思いだけだった。 しかし現実は甘くない。 子どもと関わる仕事は想像以上に難しかった。 --- その日、最初の担当は六歳の男の子だった。 名前は悠真。 発達性ディスレクシアが疑われている。 「こんにちは」 琥陽が笑顔で言う。 悠真はうつむいたままだった。 母親が言う。 「最近、学校に行きたがらなくて……」 「そうなんですね」 「みんな読めるのに自分だけ読めないって」 悠真の肩が震えた。 琥陽は胸が痛んだ。 昔の自分を見ているようだった。 小学二年生のころ。 音読の時間。 教室中の笑い声。 何度も言い間違える自分。 顔が熱くなったこと。 全部覚えている。 琥陽は静かに言った。 「悠真くん」 男の子が顔を上げる。 「読めないことは、悪いことじゃないよ」 悠真は驚いた顔をした。 「先生もね、読むの苦手なんだ」 母親も目を丸くした。 「え?」 「今でも苦手です」 悠真は初めて少し笑った。 その笑顔を見た瞬間、琥陽は言語聴覚士になってよかったと思った。 --- 第二章 失敗だらけの日々 就職して一か月。 西宮琥陽は毎日が綱渡りだった。 学生の頃から分かっていた。 自分は人よりも「当たり前」が難しい。 だから人一倍準備してきた。 それでも現場は違った。 病院には毎日新しい予定が入る。 検査。 訓練。 カンファレンス。 家族面談。 記録作成。 学校との連携。 学生時代の実習とは比較にならない量の情報が押し寄せてくる。 ある日の朝。 琥陽は電子カルテを開いた。 担当児の予定を確認する。 その瞬間、背筋が凍った。 「え……」 午前十時からの訓練が空欄になっている。 いや、正確には違う。 自分が入力し忘れていたのだ。 その時間。 保護者と子どもはすでに待合室に来ていた。 受付から電話が入る。 「西宮さん、○○ちゃん来られてますけど」 頭が真っ白になった。 「す、すみません!」 慌てて療育室へ走る。 母親は怒ってはいなかった。 しかし困惑した顔をしていた。 「今日はお休みかと思いました」 その言葉が胸に刺さる。 訓練は実施できた。 だが終わった後もしばらく手が震えていた。 その週。 今度は記録の提出が遅れた。 上司から催促される。 「西宮くん、まだ出てないよ」 「申し訳ありません」 実際には書いていた。 だが途中で別の業務が入り、保存したつもりで保存できていなかった。 帰宅後も病院に戻って書き直した。 夜十時。 誰もいないリハビリ室。 パソコンの画面だけが光っている。 疲れているのに文章が頭に入らない。 文字が行を飛ぶ。 誤字を見落とす。 何度読んでも同じ場所で引っかかる。 ディスレクシアだった。 大学時代から変わらない。 人より時間がかかる。 何倍も確認しないとミスに気づけない。 それなのに周囲は普通にできているように見える。 二か月目。 先輩との同行訓練。 七歳の男児だった。 琥陽は教材の準備を任されていた。 しかし検査用カードの一部を忘れていた。 訓練が止まる。 先輩が自分の教材を出してフォローする。 子どもには分からなかった。 保護者も気づかなかったかもしれない。 だが琥陽には分かった。 自分が迷惑をかけたことが。 昼休み。 トイレの個室に座り込んだ。 胸が苦しい。 頭の中で言葉が回る。 「また失敗した」 「なんで忘れるんだ」 「社会人失格だろ」 「言語聴覚士なんて向いてない」 誰も責めていない。 責めているのは自分自身だった。 その夜。 アパートへ帰る。 玄関にはコンビニの袋が散らかっていた。 洗濯物も山積み。 机の上には付箋が何十枚も貼られている。 『検査用紙印刷』 『カルテ確認』 『会議資料』 『電話連絡』 『ケースまとめ』 全部忘れないためだ。 だが付箋が増えすぎて何を書いているのか分からなくなっていた。 琥陽は椅子に座った。 スマホを開く。 SNSでは同級生たちが活躍している。 学会発表。 研究。 資格取得。 自分だけ取り残されている気がした。 ふと母親からLINEが届いた。 『仕事どう?』 短い文章だった。 琥陽は返信できなかった。 心配をかけたくない。 だから、 『楽しいよ』 とだけ送った。 送信した瞬間、自分で苦笑した。 本当は全然楽しくなかった。 毎日が怖かった。 明日はどんなミスをするのか。 いつ見放されるのか。 そればかり考えていた。 そんなある日。 先輩の佐伯が声をかけてきた。 「西宮くん」 「はい」 「最近、昼休み一人でいること多いね」 「そうですか?」 「無理してるでしょ」 図星だった。 琥陽は言葉に詰まる。 佐伯は少し考えてから言った。 「私ね、新人の頃、患者さんの予約を一日分間違えたことあるよ」 「え?」 「しかも二回」 琥陽は思わず顔を上げた。 完璧に見える先輩だった。 「みんな失敗する」 佐伯は笑った。 「でもね、西宮くんの良いところも見えてる」 「良いところ……ですか」 「子どもが安心して話してる」 その言葉に琥陽は驚いた。 自分では全く気づいていなかった。 その日の訓練。 悠真がぽつりと言った。 「先生」 「なに?」 「先生って怒らないよね」 「そうかな」 「前の先生は怖かった」 悠真は少し笑った。 「先生だと話しやすい」 その瞬間。 琥陽の胸の奥で何かが少しだけ軽くなった。 できないことばかり見ていた。 けれど。 もしかしたら。 自分にしかできないこともあるのかもしれない。 ### 第三章 暴れる少年 夏。 新しい担当児が来た。 八歳の健斗。 ADHDが強く、教室で問題行動を起こしていた。 療育室に入った瞬間から走り回る。 椅子には座らない。 教材は投げる。 「やりたくない!」 叫ぶ。 新人だった頃の琥陽なら困り果てていただろう。 しかし違った。 なぜなら。 彼自身がADHDだからだ。 「座りたくないんだね」 健斗は止まる。 「うん」 「じゃあ立ったままやろう」 「いいの?」 「いいよ」 健斗の目が輝く。 その日から訓練は変わった。 歩きながら言葉遊び。 ボールを投げながら音韻課題。 ジャンプしながら文章作り。 周囲からは変わったやり方に見えた。 しかし健斗には合っていた。 三か月後。 担任教師が言った。 「最近、授業に参加できる時間が増えました」 母親は泣いて喜んだ。 その姿を見て琥陽は思った。 障害は弱さだけじゃない。 理解する力にもなる。 --- ### 第四章 言葉を失った少女 十歳の美咲は事故の後遺症で高次脳機能障害を抱えていた。 以前は本好きだった。 だが今は文章が理解しづらい。 言葉も出にくい。 訓練中。 彼女は泣きながら言った。 「もう前みたいになれない」 琥陽は答えられなかった。 なぜなら。 自分もずっと同じことを考えてきたからだ。 「普通になりたい」 何度願ったか分からない。 しかしある日気づいた。 普通になれなくても生きていける。 工夫しながら進めばいい。 遠回りでも前へ進める。 だから琥陽は言った。 「前と同じじゃなくてもいい」 美咲は黙って聞いていた。 「違う形でできることを増やそう」 その日から二人は少しずつ前へ進んだ。 --- ### 第五章 自分自身との戦い 三年目。 琥陽は後輩を指導する立場になっていた。 患者も増えた。 経験も積んだ。 だがディスレクシアもADHDも消えない。 記録を書くのは今も遅い。 会議資料は音声読み上げソフトを使う。 スケジュール管理アプリを何重にも設定する。 疲れればミスも出る。 ある夜。 病院の屋上で空を見上げていた。 「先生」 振り返る。 そこには高校生になった悠真がいた。 最初の担当児だった。 「久しぶり」 「先生、覚えてる?」 「もちろん」 悠真は笑った。 「俺、読書好きになった」 琥陽は驚いた。 「本当?」 「読むの遅いけどね」 そう言って笑う。 そして続けた。 「昔、先生が言ったんだ」 『読めないことは悪いことじゃない』 琥陽は黙った。 「その言葉で救われた」 夕焼けが空を赤く染めていた。 --- ### 最終章 ことばの向こう側 十年後。 西宮琥陽は小児分野で知られる言語聴覚士になっていた。 発達障害支援の講演も行う。 だが壇上に立つ前は今でも緊張する。 原稿を読むのも苦手だ。 文字は今も時々揺れる。 予定管理も油断すると崩れる。 それでも彼は思う。 障害があったから見えたものがある。 苦しんだから分かった痛みがある。 だからこそ寄り添える子どもがいる。 講演会の最後。 ある保護者が質問した。 「先生はどうしてそんなに前向きでいられるんですか?」 会場は静まり返った。 琥陽は少し考えた。 そして答えた。 「前向きなわけじゃありません」 会場が静かになる。 「今でも苦しい日はあります」 本音だった。 「でも、一人で抱えなくていいことを知りました」 彼は続ける。 「そして子どもたちから教わったんです」 失敗してもいい。 ゆっくりでもいい。 違っていてもいい。 できないことがあってもいい。 大切なのは進み続けることだと。 拍手が起こる。 その音を聞きながら、琥陽はこれまで出会った子どもたちの顔を思い浮かべていた。 読めないことで泣いた子。 落ち着けなくて苦しんだ子。 言葉を失った子。 みんな必死に生きていた。 そして彼自身もまた、その一人だった。 言葉の困難を抱えながら。 ADHDと共に生きながら。 それでも誰かの力になろうとしている。 西宮琥陽の物語は、まだ終わらない。 明日もまた、新しい子どもとの出会いが待っているのだから。