ハルトマンアンサー 第二章 発見された遺稿 それは偶然だった。 国立心理統合理論研究所の地下書庫。 菱真は整理担当ではなかった。 そもそも整理作業は苦手だった。 だが資料室職員が不足していたため、半ば強制的に駆り出されたのである。 「七瀬君、段ボールの中を確認して番号だけ振ってくれ。」 「……はい。」 三十分後。 番号を二回間違えた。 台車に足をぶつけた。 書類を落とした。 それでも作業は進んだ。 そして。 一冊の古いファイルが出てきた。 表紙には英語で書かれていた。 HARTMANN ANSWER 「……?」 菱真は首を傾げた。 ハルトマン。 精神分析史において知られた名前だ。 だがこのタイトルは聞いたことがない。 開く。 中には日本語訳されたメモ。 手書きの注釈。 そして奇妙な文章。 『無意識は運命ではない』 『共同体感覚は幻想ではない』 『両者は同じ現象の異なる側面である』 菱真は凍りついた。 これは。 フロイト派もアドラー派も否定する内容だった。 翌日。 研究所は騒然となった。 韮崎も呼び出された。 「本物なら心理学史を書き換える。」 彼は言った。 「偽物なら大事件だ。」 そして二人は共同調査チームに選ばれた。 互いに最も嫌な相手として。 第三章 最悪の相棒 「反対です。」 会議室で韮崎が言った。 「なぜ私と七瀬なんですか。」 教授が答える。 「お前たちが一番優秀だからだ。」 「一番相性が悪いです。」 「だからだ。」 菱真も反対だった。 他人と組むのは苦手だ。 まして韮崎は理論的に対立している。 数日後。 二人は資料解析室にいた。 沈黙。 二時間。 沈黙。 三時間。 先に限界を迎えたのは韮崎だった。 「何か言え。」 「何をですか。」 「共同研究だぞ。」 「今考えていました。」 「三時間も?」 「はい。」 「怖いな。」 菱真は気にしなかった。 しかし韮崎は苛立っていた。 彼は議論で発想を広げるタイプ。 菱真は一人で思考を深めるタイプ。 根本的に噛み合わない。 そんな中。 文書の中から奇妙な記述が見つかる。 『人は過去に支配される』 『しかし過去のみで未来は決定されない』 フロイトとアドラー。 両方の考えが混ざっていた。 韮崎は眉をひそめた。 「中途半端だ。」 「そうですか?」 「理論として曖昧すぎる。」 菱真は首を傾げる。 「現実は曖昧です。」 「理論は明確であるべきだ。」 「現実に負ける理論なら意味がありません。」 最初の衝突だった。 第四章 対立 共同研究開始から二週間。 ついに大喧嘩が起きた。 学会発表準備の日。 韮崎はスライドを修正していた。 数字を何度も確認する。 不安障害のせいで確認が止まらない。 一方。 菱真は新しい仮説を書き足していた。 発表前日なのに。 「何をしてる。」 韮崎が言った。 「改良です。」 「今!?」 「思いついたので。」 「締切前だぞ!」 「でも正しい可能性があります。」 韮崎の顔色が変わった。 「可能性で全部ひっくり返す気か?」 「研究はそういうものです。」 「違う!」 机を叩く。 研究室が静まり返る。 「お前は無責任だ!」 韮崎が叫んだ。 「周囲がどれだけ準備したと思ってる!」 菱真も珍しく感情的になった。 「じゃあ間違っていても発表するんですか!」 「そう言ってない!」 「でも今のはそう聞こえました!」 沈黙。 韮崎は息を荒くしていた。 発作の前兆だった。 不安障害が悪化すると呼吸が浅くなる。 菱真は気づいた。 だがどう接すればいいかわからない。 結局。 二人はその日、別々に帰った。 第五章 壊れかけた共同研究 三日間。 二人はまともに話さなかった。 研究も停滞した。 チーム全体の雰囲気も悪化した。 そして四日目。 事件が起きた。 韮崎が研究所で倒れた。 過労だった。 不安障害の悪化も重なっていた。 病室。 菱真は見舞いに来ていた。 来るべきか三時間悩んだ末に。 「……。」 「……。」 沈黙。 韮崎が先に口を開く。 「気まずいな。」 「はい。」 「帰るか?」 「帰りません。」 さらに沈黙。 やがて菱真が言った。 「僕は。」 「?」 「人は変われると思っています。」 「知ってる。」 「でも。」 菱真は言葉を探した。 不器用に。 ゆっくり。 「変われない部分もあります。」 韮崎は黙った。 「ADHDは消えません。」 「……。」 「DCDも消えません。」 「そうだな。」 「だから僕は。」 菱真は続けた。 「変われないものを抱えたまま生きる方法を探しています。」 病室が静かになる。 韮崎は初めて理解した。 アドラー派だからといって、 菱真が「努力すれば何でも解決する」と考えているわけではない。 そして菱真も気づく。 韮崎が過去に囚われているのではなく、 苦しみながら前に進もうとしていることを。 「俺も。」 韮崎が言った。 「不安は消えない。」 「はい。」 「でも研究は続けたい。」 菱真はうなずいた。 その瞬間。 二人の対立は終わらなかった。 だが。 敵ではなくなった。 そして退院後。 韮崎は新たな資料を発見する。 ハルトマン・アンサーの最終ページ。 そこにはたった一文だけが残されていた。 『フロイトとアドラーは、同じ山を別の道から登っていた。』 二人は顔を見合わせる。 これは単なる理論書ではない。 誰かが意図的に隠した研究記録だ。 そしてその背後には、 心理学界全体を揺るがす秘密が眠っていた――。