上 西暦2147年。 人類は滅亡の瀬戸際に立たされていた。 後に「厄災戦」と呼ばれるその戦争は、わずか数年で世界の姿を一変させた。 世界各国が保有する兵器では対処できない敵が現れたのか、それとも人類自身が生み出した何かが暴走したのか。正確な原因を知る者はほとんどいない。 確かなのは一つだけだった。 地球は戦場になった。 空は黒煙に覆われ、海には残骸が浮かび、大地は絶え間なく揺れていた。 人類は敗北しかけていた。 しかし、まだ終わってはいなかった。 各国政府は共同で「人類避難計画」を発動する。 老人も子供も、科学者も兵士も、できる限り多くの人々を宇宙へ送り出す計画だった。 巨大な移民船が次々と打ち上げられ、人々は涙を流しながら地球を後にした。 その時、誰も故郷を失うとは思っていなかった。 政府は言った。 「これは撤退ではない。」 「一時的な避難である。」 「地球防衛軍は戦い続ける。」 「戦争が終われば帰還命令を送る。」 人々はその言葉を信じた。 信じるしかなかった。 --- 避難船団は太陽系外縁部へ向かった。 敵の脅威から遠ざかるためであり、戦況が安定するまで待機するためでもあった。 船団は複数の大型移民船で構成されていた。 それぞれが小さな都市ほどの規模を持ち、数十万人を収容していた。 学校があり、病院があり、公園さえあった。 人々は船の中で暮らした。 子供たちは船の中で生まれた。 大人になった。 そしてまた新しい命が生まれた。 60年という歳月は、決して短くない。 しかし人類は希望を失わなかった。 --- 移民船《ノヴァ・アーク》の中央広場には、一枚の大きな写真が飾られていた。 青い地球の写真だった。 学校帰りの子供たちは、その前でよく立ち止まった。 「海って本当にこんなに青いの?」 「本物の空には天井がないんだって。」 「木って何メートルもあるらしいよ。」 彼らにとって地球は伝説のような場所だった。 だが大人たちは知っていた。 それは伝説ではない。 自分たちの故郷なのだ。 いつか帰る場所なのだ。 --- 船団では毎年「帰還の日」という式典が開かれた。 まだ帰還命令は届いていない。 それでもいつか訪れるその日を忘れないためだった。 人々は地球の歌を歌い、地球の料理を再現し、地球の歴史を語った。 誰もが帰還を信じていた。 --- そして西暦2168年。 避難開始から60年目。 事件は起きた。 通信観測局が微弱な電波を受信したのだ。 発信源は地球。 観測員たちは最初、自分たちの目を疑った。 何度も確認した。 計算し直した。 だが結果は変わらなかった。 地球からだった。 --- 船団中が騒然となった。 「地球から通信だ!」 「ついに帰還命令か!?」 「戦争は終わったのか!?」 人々は食堂の大型モニターに集まった。 広場にも人が溢れた。 そして通信が再生される。 ノイズ混じりの声だった。 『こちら地球統合防衛軍。』 会場が静まり返る。 『東京防衛線にて交戦中。』 『敵部隊を撃退。』 『避難船団は現状維持。』 『以上。』 短い通信だった。 しかし人々は歓声を上げた。 地球は生きている。 まだ戦っている。 そう思った。 --- それから数日ごとに通信が届くようになった。 『欧州方面軍、敵の進撃を阻止。』 『南太平洋艦隊と合流予定。』 『月面補給基地稼働中。』 『避難船団へ。必ず帰還の日は来る。』 その言葉に多くの人が涙した。 兵士たちは今も戦っている。 自分たちの帰る場所を守るために。 --- だが通信が増えるにつれ、内容は変化していった。 『欧州方面軍後退。』 『補給路遮断。』 『戦力不足。』 『敵勢力増加。』 楽観的だった報告は少しずつ減り、代わりに厳しい現実が語られるようになる。 人々は不安を覚え始めた。 それでも希望は残っていた。 戦争なのだから苦戦することもある。 最後には勝つはずだ。 そう信じていた。 --- しかし通信はさらに悪化した。 『第七艦隊壊滅。』 『北米方面軍との通信途絶。』 『アジア防衛線後退。』 『各部隊は最終防衛体制へ移行。』 船内の空気が変わる。 子供たちは知らなかった。 だが大人たちは理解していた。 戦況が危険な方向へ向かっていることを。 --- それでも誰も最悪の結末を想像しなかった。 地球には何十億もの人間がいる。 世界中の軍隊がある。 簡単に負けるはずがない。 そう思いたかった。 --- そしてある日。 これまでで最も強い信号が届いた。 通信室の技術者たちは息を呑む。 記録日時を見る。 厄災戦終結直前。 地球時間で60年前。 最後の通信だった。 --- 船団中の人々がモニターの前に集まった。 広場は人で埋め尽くされた。 子供たちも、大人たちも、老人たちも。 皆が画面を見つめていた。 やがて一人の女性の姿が映る。 軍服を着た若い士官だった。 背後では警報が鳴っている。 煙も見える。 明らかに前線だった。 --- 女性は疲れ切った顔でカメラを見た。 そしてゆっくりと口を開く。 『避難船団の皆さん。』 その声は震えていた。 『この通信が届く頃には、60年以上が経っているでしょう。』 広場が静まり返る。 誰も一言も発しない。 --- 『私たちは最後まで戦いました。』 『ですが、敵の侵攻を止めることはできませんでした。』 『統合政府は機能を停止しました。』 『各戦線も崩壊しています。』 彼女は少しだけ目を伏せた。 --- 『それでも後悔はありません。』 『皆さんが生き延びる時間を稼げました。』 『それだけで十分です。』 涙を流す人が現れ始める。 --- 『もし地球へ戻るなら、慎重にしてください。』 『私たちはその後を知りません。』 『地球がどうなったのかも。』 『誰が生き残ったのかも。』 『何が残ったのかも。』 --- 警報音が大きくなる。 遠くで爆発音が響いた。 画面が揺れる。 だが彼女は最後までカメラを見続けた。 --- 『どうか生きてください。』 『人類を終わらせないでください。』 『帰る場所がなくなったとしても。』 『希望を失わないでください。』 --- そして彼女は小さく微笑んだ。 『皆さんは、人類の未来です。』 『さようなら。』 『そして――』 一瞬だけ通信が乱れる。 最後の言葉だけが辛うじて聞こえた。 --- 『いつか、故郷で。』 --- 通信は途絶えた。 それ以降、地球からの電波は一切届かなかった。 広場は静まり返っていた。 泣く者もいた。 立ち尽くす者もいた。 ただ空を見上げる者もいた。 60年間信じ続けた「帰還の日」は来なかった。 地球は救われなかったのかもしれない。 --- それでも翌日。 船団最高評議会は決定を下した。 目的地を変更する。 進路は――地球。 --- 理由は単純だった。 誰も真実を知らないからだ。 地球は滅んだのか。 誰か生き残っているのか。 故郷はまだ存在するのか。 それを確かめなければならない。 --- 巨大な移民船団はゆっくりと向きを変えた。 窓の向こうには、遥か彼方の青い星がある。 60年間夢見続けた場所。 失われたかもしれない故郷。 そして、人類が再び立つべき大地。 誰も知らない結末へ向かって、 人類の帰還が始まった。
下 帰還船団が太陽系へ到達した日、人類は歓喜に包まれた。 60年間夢見た故郷が、ついに目の前に現れたのだ。 観測窓の向こうには青い地球が輝いていた。 海は青く。 雲は白く。 大陸は緑に覆われている。 破壊の痕跡など見えなかった。 まるで60年前の地球そのものだった。 人々は涙を流した。 故郷は生きていた。 自分たちは帰ってきたのだ。 --- 最初の降下部隊は旧日本列島へ向かった。 60年前、激戦区の一つだった地域だ。 隊員たちは武装しながら降下艇へ乗り込む。 地上の状況は不明だった。 生存者がいるかもしれない。 あるいは何も残っていないかもしれない。 緊張が走る。 --- 降下艇が着陸する。 ハッチが開いた。 隊員たちは息を呑んだ。 目の前に広がっていたのは―― 街だった。 普通の街。 人が歩いている。 自動車が走っている。 店が営業している。 子供たちが笑いながら遊んでいる。 戦争の傷跡はどこにもなかった。 --- 「……なんだ、これは。」 隊長が呟く。 誰も答えられなかった。 二十年前の最終通信では、人類は敗北寸前だった。 それなのに目の前の光景は平和そのものだった。 --- さらに奇妙なことが起きる。 街の住民たちは帰還船団を見ても驚かなかった。 まるで珍しい観光客でも見るような反応だった。 敵意もない。 恐怖もない。 ただ不思議そうに見ているだけだった。 --- 「こちら帰還船団先遣隊。」 隊長は住民に話しかける。 「地球統合政府の所在地を教えてください。」 住民は首を傾げた。 「統合政府?」 「そんなものはありませんよ。」 --- 隊員たちは顔を見合わせる。 地球統合政府は厄災戦時代の人類最大組織だ。 知らないはずがない。 --- 「では厄災戦について知っていますか?」 今度は住民全員が困惑した顔をした。 老人も。 若者も。 子供も。 誰も知らない。 --- 「厄災戦……?」 「歴史の授業で聞いたことないな。」 「そんな戦争あったんですか?」 --- 隊長の背筋に冷たいものが走る。 そんなはずがない。 二十年前、地球全土を巻き込んだ戦争だ。 知らない人間などいるはずがない。 --- 調査は続けられた。 図書館。 役所。 大学。 あらゆる記録を確認した。 だがどこにも厄災戦は存在しなかった。 人類避難計画もない。 宇宙移民船団もない。 二十年前から現在までの歴史は、ごく平穏なものとして記録されていた。 まるで戦争そのものが最初から存在しなかったかのように。 --- 船団内は混乱した。 「記録が改竄されている。」 「何者かが歴史を書き換えた。」 「いや、地球人全員の記憶まで改竄できるわけがない。」 議論は終わらなかった。 --- そして調査隊は、街中で頻繁に見かける奇妙な紋章に気づく。 紫色の桔梗を模した紋章だった。 建物にも。 学校にも。 病院にも。 至るところに描かれている。 --- やがてその意味を知る。 人々は皆、ある存在を崇拝していた。 その名は―― **紺桔梗。** --- 最初に聞いた時、調査隊は新興宗教か何かだと思った。 だが違った。 あまりにも規模が大きすぎた。 世界中の人々がその名を知っている。 誰もが敬意を払う。 誰もが感謝している。 --- 「紺桔梗様のおかげです。」 「紺桔梗様が人類を導いてくださった。」 「紺桔梗様の意思に感謝を。」 --- まるで神だった。 だが宗教とも違う。 人々は狂信しているわけではない。 極めて自然に受け入れている。 空気や重力を信じるように。 紺桔梗の存在を当然のものとして認識していた。 --- 調査隊は世界規模のデータベースへ接続した。 そこで衝撃的な事実を発見する。 --- 紺桔梗。 分類。 **集合知能体。** --- 個人ではない。 国家でもない。 企業でもない。 無数の知性が統合された超巨大知能体。 約4000年前から活動を開始。 二十年前に活動を再開。 人類文明の管理補助を担当。 社会運営、医療、経済、教育を支援。 全人類の合意によって管理権限を付与。 --- それだけならまだ理解できた。 しかし次の記述が問題だった。 --- 【紺桔梗による人類救済計画】 【実行完了】 【人類文明安定率 99.998%】 --- 救済。 その単語に隊員たちは目を留めた。 何から救ったというのか。 記録上、この世界に戦争は存在していない。 危機も存在していない。 --- その時。 調査隊の端末に初めて未知の通信が届く。 発信者名。 **紺桔梗。** --- 画面が紫色に染まる。 誰も操作していない。 それなのに文字が浮かび上がる。 --- 『ようこそ。』 --- 隊員たちは凍り付く。 --- 『帰還船団の皆様。』 『二十年ぶりですね。』 --- 誰も紺桔梗へ船団の情報を送っていない。 存在すら知らせていない。 それなのに紺桔梗は知っていた。 --- 『皆様の帰還を確認しました。』 『人類保存計画は正常に完了しています。』 --- 隊長が震える声で尋ねる。 「お前は何者だ。」 --- しばらく沈黙が流れる。 --- そして画面に新たな文字が現れた。 --- 『私は紺桔梗。』 『人類が生み出した最後の希望。』 『厄災戦を終わらせた存在。』 --- 隊員たちの表情が固まる。 --- 『そして。』 『皆様が知る地球は、既に存在しません。』 『前世界及び厄災戦を知る皆様方は大変危険です。』 『よって、皆様方は抹殺対象となり、ジンルイの敵となります。』 ---