第一章 月に喰われる街 月光が街を撫でる夜、人は窓を閉ざし、祈りを飲み込む。 それでも月は等しく降り注ぎ、選別するように命を喰らった。 最初は痒みだった。 次に、皮膚の内側で何かが芽吹く感覚。 やがて血管を突き破り、赤い桜が咲く。 月喰病。 月光を浴びた者の体内で異常増殖する未知の因子が、肉体を苗床に桜を咲かせ、最終的には人そのものを一本の樹へと変える死病。 発症者は美しい。 だからこそ、恐ろしかった。 石畳の路地に立つ男は、その光景を一切の感慨なく見下ろしていた。 深い青色の髪。 白と黒が寸分違わず調和した正装。 背筋は定規のように伸び、呼吸の揺らぎすら計測されているかのようだ。 オルド・サクラ。 男は、赤い桜を咲かせながら崩れ落ちる女性を「哀れ」とも「残酷」とも思わない。 ただ一つ、事実として認識する。 「発症から完全開花まで、平均三十六分。誤差一分二十秒。……想定内です」 淡々とした敬語。 そこに感情はない。 女性が桜へと変わり果てる瞬間、骨の砕ける音と共に枝が伸びる。 通りに花弁が舞った。 「この街でのサンプルは、これで三百二十七例。統計的有意性は十分でしょう」 オルドは手帳を閉じる。 そこには数式と人体図、そして一人の少女の名が記されていた。 夢見夜 依月。 「脳髄が完全形である可能性は九十八・七%。特効薬生成の成功率、現段階で七十四%。……十分です」 彼の目的は、月喰病の特効薬。 そして、その材料は一人の少女の脳だった。 その夜、屋根の上で二つの影がそれを見ていた。 「ふふ……また咲いたわねえ」 優しい声音で笑う女。 赤い瞳、黒髪のロング。黒いドレスが月光を吸い込む。 ホーキは、壊れる人間を見るのが何より好きだった。 「街が静かすぎるのじゃ。恋も悲鳴も足りぬ」 白い巫女服に身を包んだ長身の女が、のんびりと告げる。 蒼い瞳、白髪の長髪。朱桜 累。 「でも、あの男……面白い匂いがするわ」 ホーキは指先で空をなぞる。 街中に仕掛けられた盗聴器とカメラが、一斉に焦点を合わせた。 「計算で生きてる人って、壊れたときが一番きれいなのよ」 累はくすりと笑った。 「のう、妹よ。あやつ、恋を知らぬ顔じゃ。……壊すには、少々時間がかかりそうじゃな」 月は、すべてを見下ろしていた。 ―――――――――― 第二章 ほわほわと月影 夢見夜 依月は、月を見るのが好きだった。 「えへぇ〜……今日の月、まんまるだねぇ」 朱色の髪を揺らし、三つ編みを指で整えながら、彼女は微笑む。 着物とワンピースの合いの子のような服が、風に柔らかく揺れた。 月喰病患者の隔離施設。 そこは死に近い場所のはずなのに、依月がいるだけで空気が変わる。 「大丈夫だよぉ。怖いよね。でもね、ちゃんと呼吸しよ?」 依月が手を握ると、不思議と患者の震えが止まる。 彼女は無意識に、人の精神を癒やしていた。 それを、監視カメラ越しに見つめる男がいる。 「精神安定効果、既存理論では説明不能……脳活動に特異点」 オルド・サクラは、モニターから目を離さない。 「月喰病因子と干渉する可能性……いえ、干渉ではない。共鳴……?」 一瞬、彼の思考が引っかかった。 説明できない。 数式に落とせない。 「……想定外、ではありません」 そう呟き、彼は自分に言い聞かせる。 施設の外、ベンチに座る少年がいた。 棕櫚。十五歳。 依月のことが好きで、泣き虫で、優しい。 「依月さん……無理、してないかな」 月光を避けるため、深く被った帽子の下で、少年は空を見ない。 そのとき、背後から声がした。 「君は、彼女を救いたいのですか?」 丁寧で、静かな声。 振り返ると、背の高い男が立っていた。 白と黒の正装、深い青の髪。 「え……あ、はい……」 「そうですか。それは合理的ですね」 オルドは微笑まない。 「彼女は特別です。ですが、特別であるがゆえに、世界を救う可能性もある」 棕櫚は、その言葉の意味を理解できなかった。 ただ、胸の奥が嫌な音を立てた。 月は、静かに光を強めていく。 第三章 観測者と癒やし手 隔離施設の白い廊下は、夜になると音を失う。 月光を遮断するための厚いカーテンが、世界との境界を作っていた。 「こんばんはぁ……今日は調子どうですか?」 夢見夜 依月は、いつも通りだった。 ほわほわと、柔らかく、世界を傷つけない速度で歩く。 その背後に、影がひとつ重なる。 「精神状態は安定していますね」 丁寧な敬語。 しかし、その声には体温がなかった。 依月は振り返る。 「あれぇ……さっきの人だぁ。えへぇ〜、先生?」 「いいえ。私は観測者です」 オルド・サクラは、彼女を見下ろしていた。 正確には、彼女の頭部を。 「貴方は、患者の恐怖反応を抑制している。薬品も装置も使わずに。……興味深い」 「うへぇ……難しいことは分かんないけどぉ、苦しいのは、やだからねぇ」 依月は、にこりと笑う。 「みんな、桜になる前に……少しでも、安心できたらいいなぁって」 その瞬間、オルドの内部で数式が崩れた。 恐怖を前にした合理的行動。 死を目前にした生存本能。 それらに反する、無償の行為。 「……なぜですか?」 彼の問いは、純粋だった。 「え?んー……えへぇ……好きだから、かな?」 「好き、とは?」 「人が人でいられる時間が、好き」 依月は、胸に手を当てる。 「それだけだよぉ」 沈黙。 オルドは、彼女から目を逸らした。 理解不能。 しかし、排除するには惜しい。 「貴方は、世界を救える可能性があります」 「うへぇ……世界?」 「はい。ですが、それは貴方の犠牲を伴う」 依月は少しだけ首を傾げた。 「……それでも、誰かが助かるなら、いいんじゃないかなぁ」 その言葉が、オルドの予測を上回った。 ―――――――――― 第四章 姉の鎌、妹の鎖 夜の神社。 赤い鳥居の下、月光が石段を照らす。 「ねえ、姉さま。」 ホーキは、鎌を肩に担ぎながら笑う。 「そろそろ壊していいでしょ?あの男も、あの女も」 赤い瞳が愉悦に揺れる。 「……ならぬ」 朱桜 累は、一歩前に出た。 巫女服が、風に静かに揺れる。 「妹よ。壊すには、順序があるのじゃ」 「え〜?でもさぁ、人が壊れる顔って、待ってると冷めちゃうのよ?」 ホーキの声は甘い。 だが、累の蒼眼は一切笑わない。 「オルド・サクラは、壊すべき器ではない」 「……へぇ?」 「まだ、恋を知らぬ。愛に触れておらぬ」 累は、指先で結界を描く。 「のじゃ。あやつは、自ら崩れる瞬間こそが肝要」 ホーキは唇を尖らせた。 「じゃあ、あのほわほわちゃんは?」 「依月は、触るな」 即答だった。 「彼女は、人の心を救う。壊せば、妹よ……お主は制御できぬ」 一瞬、ホーキの表情が歪む。 狂気が溢れかける。 「……はあ」 だが、次の瞬間、彼女は肩をすくめた。 「分かったわよ、お姉ちゃん」 鎌を下ろし、くすりと笑う。 「じゃあさ……見守るだけにする。壊れる“瞬間”までは」 累は頷いた。 「それでよい。恋も愛も、熟れてから喰らうのじゃ」 神社の奥で、桜の花弁が一枚、落ちた。 月は、まだ満ちていない。 第五章 月夜の交渉 「結論から申し上げます」 夜の神社。 結界の内側で、オルド・サクラは朱桜 累とホーキを前にしていた。 「貴女方は、敵ではありません。少なくとも、現時点では」 ホーキは楽しそうに微笑む。 「あらぁ、ずいぶん失礼ね。でも……続けて?」 累は腕を組み、静かに頷く。 「依月への直接的危害は、貴女方の目的と一致しない。むしろ保護対象であると推測します」 「のじゃ。よく見ておる」 累は口角を上げる。 「彼女は、恋と愛を生む器じゃ。壊せば、世界がつまらぬ」 ホーキは鎌を指で回しながら、オルドを観察していた。 「でもさぁ、あなたは彼女の脳を欲しがってる。守るなんて、矛盾してない?」 「矛盾ではありません」 即答だった。 「完全な素材は、完全な状態でなければ意味がない」 冷酷な合理性。 しかし、その言葉の裏には別の意図が潜んでいる。 「月喰病の進行を遅延させる結界、街の監視網の撹乱。貴女方の能力は、依月の生存確率を上げる」 「取引、ということかしら?」 ホーキが楽しげに尋ねる。 「はい。貴女方は裏から依月を守る。私は、彼女に近づく脅威を排除する」 累は少し考え、やがて笑った。 「のう、面白い男じゃ。妹よ」 「なあに?」 「こやつ、自分が何を守ろうとしておるか、分かっておらぬ」 ホーキはくすりと笑った。 「いいわ。協力してあげる。壊すのは……もう少し後でね」 オルドは一礼する。 「感謝いたします。これで、計画の成功率は九十一%に上昇しました」 その数値の中に、彼自身の心は含まれていなかった。
第六章 壊される恋 棕櫚は、月を見てしまった。 ほんの一瞬。 帽子の隙間から漏れた光が、視界を白く染める。 「……っ」 胸が、ひりつく。 だが、桜は咲かない。 「まだ……大丈夫、だ」 彼は、依月に会うために施設へ向かっていた。 「依月さんに……会わなきゃ……」 その背後に、気配が立つ。 「君は、彼女を想いすぎています」 振り返ると、オルド・サクラが立っていた。 「な……なんで……」 「貴方の感情は、依月の生存確率を下げる」 棕櫚は理解できないまま、叫ぶ。 「好きなだけだ!守りたいだけだ!」 その瞬間、オルドの瞳がわずかに揺れた。 自己犠牲。 非合理な選択。 彼の内部で、何かが軋む。 「……それが、問題なのです」 静かに告げる。 「貴方の恋は、彼女を縛る」 「違う!」 「いいえ。正しい」 オルドは一歩踏み出す。 「依月は、誰か一人のものになる器ではない」 その声は冷たく、正確だった。 「だから、壊します」 背後で、ホーキの鎌が月光を反射する。 「ごめんねぇ、坊や」 優しい声。 「恋って、一番きれいに壊れるから」 累は遠くから見ていた。 止めなかった。 「……のじゃ。これもまた、選別」 棕櫚は涙を流しながら、依月の名を呼ぶ。 「依月さん……!」 その声は、結界に遮られ、届かない。 オルドは目を伏せた。 「想定外は……ありえない」 だが、その言葉は、どこか震えていた。 第七章 桜の下で眠るもの 月は、満ちていた。 隔離施設の地下。 結界、監視、姉妹の網、そのすべてをすり抜けて、オルド・サクラはついに辿り着いた。 夢見夜 依月は、白い寝台に座っていた。 月光を遮断するはずの部屋に、なぜか淡い光が差し込んでいる。 「……来ちゃったんだねぇ」 依月は、いつも通りほわほわと笑った。 「ここまで、計算通りですかぁ?」 オルドは一瞬、言葉を失った。 その沈黙は、彼の人生で初めてのものだった。 「……はい」 ゆっくりと、丁寧に答える。 「貴方に接触するまでの成功率は、二十三%。想定内です」 依月は首を傾げる。 「えへぇ……ずいぶん、大変だったんだぁ」 「合理的な犠牲の積み重ねです」 彼は一歩、彼女に近づいた。 「夢見夜 依月。貴方の脳髄は、月喰病の特効薬となり得ます」 冷静な声。 だが、胸の奥で何かが崩れ落ちていた。 「世界は、貴方を必要としている」 依月は、黙って彼を見つめた。 その視線に、拒絶はない。 「……ねぇ」 依月は、ゆっくり立ち上がる。 「オルドさんはさぁ」 彼の名を、初めて呼んだ。 「世界を救いたいの?」 質問。 だが、それは計算に存在しない問いだった。 「結果として、そうなります」 「それって……オルドさんが、救われたいってことじゃないの?」 その瞬間。 オルドの中で、すべての前提条件が崩壊した。 「……はは」 喉から、乾いた音が漏れる。 「なんだよ、それ」 敬語が消える。 「君は、そんなところまで見てたのか」 視線が揺れ、正装の留め具を無意識に外す。 「綺麗だな……本当に。ああ、計算式には……入ってなかった」 彼は、依月の額に手を伸ばす。 「もう少しで、答えに辿り着けたのに」 その瞬間。 「――残念だったわね」 背後から、優しい声。 鎌が、月光を裂いた。 オルドの胸を、正確に貫く。 「ホーキ……?」 血が、白と黒の正装を汚す。 「うふふ」 ホーキは、至福に満ちた表情だった。 「壊れる直前が、一番きれい」 オルドは、膝をつく。 「……想定外、は……」 言い切る前に、鎌が再び振るわれた。 計画。 未来。 合理性。 すべてが、そこで終わった。 「ホーキ!」 累の声が、遅れて響く。 だが、もう止められない。 「やりすぎじゃ」 「いいえ?」 ホーキは微笑む。 「だって、あの人。壊れたがってたもの」 依月は、呆然と立ち尽くしていた。 そして、ゆっくりと、オルドの骸を抱きかかえる。 「……あったかい」 涙は、出なかった。 外へ。 月光の下へ。 赤い桜が咲く一本の木の下に、依月は穴を掘る。 誰にも見せない、静かな場所。 「ねぇ……オルドさん」 骸を、そっと横たえる。 「世界、最適化できた?」 答えはない。 依月は土をかける。 「でもねぇ」 最後に、微笑んだ。 「オルドさんは、ちゃんと人だったよ」 桜の花弁が、墓標のように降り積もる。 月は、何も言わない。 ただ、すべてを照らしていた。 終焉 月の裏側 棕櫚は、最後まで月を見なかった。 喉から血を溢れさせ、冷たい地面に倒れながらも、彼の視線は地に落ちた花弁だけを追っていた。 「……依月、さん……」 名を呼ぶ声は、誰にも届かない。 恋は叶わず、救われることもなく。 棕櫚は、静かに死んだ。 冥界は、静かだった。 生も死も等価に並ぶ場所。 棕櫚は、自分が死んだことをすぐに理解した。 「……ここ、どこ……」 「冥界じゃ」 背後から、のじゃ、という語尾が落ちてくる。 振り返ると、白髪の女が立っていた。 蒼い眼で、優しく、しかし神のように見下ろしている。 「朱桜……累……?」 「そう呼ばれておる」 累は、棕櫚を見つめる。 「お主の恋は、実らなかったの」 棕櫚は、何も言えなかった。 ただ、唇を噛みしめる。 「のう」 累は、少しだけ声を柔らかくした。 「やり直したいか?」 その言葉に、棕櫚の心が揺れた。 「……やり直せる、なら……」 依月の笑顔が、脳裏に浮かぶ。 だが。 「それは、許可できない」 低く、静かな声が割り込んだ。 「……オルド、さん?」 闇の向こうから現れたのは、深い青の髪の男。 胸に穿たれたはずの傷は、冥界では存在しない。 「君の再演は、最適解ではない」 累が眉をひそめる。 「待て、オルド・サクラ。お主は既に——」 「理解しています」 彼は微笑んだ。 「ですが、想定外はありえない」 次の瞬間、冥界の秩序が歪む。 棕櫚は、何かに引き裂かれる感覚を覚えた。 「——っ、なに……」 「君の存在は、ここで完結すべきです」 オルドは、淡々と告げる。 「代わりに、私は戻る」 世界が反転した。 現世。 土に埋められたはずの男が、再び立ち上がる。 オルド・サクラは、月光の下で呼吸を再開した。 「……時間遅延、許容範囲内」 彼の手には、血に濡れた小さな器。 夢見夜 依月の脳髄。 抵抗はなかった。 依月は、最期まで微笑んでいた。 数日後。 地下の研究室で、薬は完成した。 理論。 数式。 因子配列。 すべて完璧。 「投与開始」 月喰病患者に、薬は与えられる。 結果。 何も、起こらなかった。 桜は咲き、肉は裂け、人は樹になる。 「……」 オルドは、初めて言葉を失った。 「なぜ……?」 計算は、完璧だった。 だが。 「効果、ゼロ」 世界は、何も最適化されていない。 オルドの膝が、ゆっくりと崩れる。 「……は、はは……」 乾いた笑い。 「……想定外……?」 その瞬間、彼は壊れた。 合理も、未来も、意味を失い、ただ一人の男として崩壊する。 冥界。 棕櫚は、膝を抱えていた。 「……依月、さん……」 救いは来ない。 やり直しも、赦しもない。 恋は、ここで完全に砕けた。 闇夜。 屋根の上で、ホーキがそれを見下ろしている。 「ふふ……」 赤い瞳が、細く細く笑った。 「きれい」 世界も、恋も、合理も。 すべてが壊れた夜。 ホーキは、にんまりと微笑んでいた。 月は、最後まで何も語らなかった。