# 誰かの憂鬱 ## 第一章 静かな役所の青年 十三治(じゅうそう はる)は、地方都市の市役所で働く二十六歳の若手職員だった。 真面目で礼儀正しく、誰に対しても穏やかだった。 しかし彼には誰にも言えない苦しみがあった。 それは、ミュンヒハウゼン症候群だった。 治は子どもの頃から強い孤独を抱えていた。 両親は忙しく、家にはいつも静かな空気が流れていた。 誰かに心配されたい。 誰かに気にかけてもらいたい。 そんな願いは成長しても消えなかった。 そしていつしか彼は、自分が病気であるかのように振る舞うことで、人とのつながりを感じるようになっていた。 もちろん本人も苦しんでいた。 やめたいと思う日もあった。 だが孤独のほうが恐ろしかった。 市役所では同僚たちが優しかった。 「大丈夫?」 「無理しないでね」 そんな言葉を聞くたび、治の胸は少しだけ温かくなった。 しかしその温かさは長く続かない。 また孤独がやってくる。 だから彼は繰り返してしまう。 苦しみながら。 自分でも止められないまま。 --- ## 第二章 優しい人たち 市役所には様々な人がいた。 面倒見の良い先輩。 気さくな同僚。 相談に乗ってくれる上司。 治は皆が好きだった。 本当に好きだった。 だからこそ苦しかった。 普通に接してほしいのか。 心配してほしいのか。 自分でもわからなくなる。 夜になると一人暮らしの部屋で天井を見つめた。 誰からも連絡が来ない時間。 静寂だけが支配する時間。 その時間が彼には耐え難かった。 スマートフォンを握りしめる。 誰かからの通知を待つ。 だが画面は暗いままだった。 治は布団の中で泣いた。 誰にも知られず。 誰にも気づかれず。 --- ## 第三章 崩れていく日々 ある日、治は職場で倒れた。 周囲は大騒ぎになった。 救急車も呼ばれた。 同僚たちは心配した。 治はその様子を見ながら、胸が締め付けられる思いだった。 安心したわけではない。 嬉しかったわけでもない。 ただ苦しかった。 自分でもなぜこうなってしまうのかわからない。 理解されたい。 助けてほしい。 けれど本当の苦しみを言葉にできない。 治は病院の白い天井を見つめた。 そこには何もなかった。 ただ無機質な光だけがあった。 --- ## 第四章 誰も知らない傷 季節は流れた。 治の心は少しずつ疲弊していった。 周囲は優しかった。 しかし優しさだけでは埋まらない空洞が彼の中にあった。 休日も外出しなくなった。 食事も減った。 眠れない日も増えた。 窓から見える街の灯りを眺めながら、彼は思う。 「僕は何者なんだろう」 答えは出ない。 ただ孤独だけが隣に座っていた。 治は人が嫌いなわけではなかった。 むしろ人が好きだった。 人とのつながりを求め続けた。 だからこそ苦しんだ。 だからこそ壊れていった。 --- ## 第五章 誰かの憂鬱 冬の夜だった。 雪が降っていた。 治は一人で歩いていた。 市役所からの帰り道。 街灯の明かりが雪を照らしていた。 彼は立ち止まった。 静かな夜だった。 誰もいない。 何も聞こえない。 治は空を見上げた。 白い雪が顔に落ちる。 冷たい。 だが嫌ではなかった。 その瞬間、不思議なことに心が少しだけ穏やかになった。 ずっと求めていたものは何だったのだろう。 誰かの言葉。 誰かの優しさ。 誰かのぬくもり。 それとも――。 答えは最後までわからなかった。 治はゆっくりと歩き出した。 しかしその背中はひどく弱々しかった。 翌日。 彼は職場に来なかった。 その次の日も。 さらにその次の日も。 誰も理由を知らなかった。 同僚たちは心配した。 探した。 連絡した。 だが返事はない。 やがて捜索が行われた。 そして数日後。 雪深い山中で治は発見された。 冷たい雪に包まれながら。 まるで眠っているような姿だった。 苦しそうな顔ではなかった。 ただ、とても疲れた人の顔だった。 市役所の人々は深く悲しんだ。 もっと話を聞けばよかった。 もっと寄り添えたのではないか。 そう考える人もいた。 けれど誰も治を責めなかった。 彼は悪い人ではなかった。 ただ長い間、誰にも見えない苦しみを抱えていた人だった。 孤独に傷つき続けた人だった。 そして春。 雪が溶け始めた頃。 治の机は片付けられた。 しかし彼が使っていた古いマグカップだけは、しばらく誰も捨てられなかった。 まるで彼がまた戻ってくるような気がしたからだ。 窓の外では桜が咲いていた。 だが治はもういない。 彼の人生は救われないまま終わった。 誰にも完全には理解されないまま。 それでも彼は最後まで、ただ誰かとつながりたいと願い続けた一人の青年だった。 その憂鬱は、最後まで誰のものでもなく。 そして同時に、誰かの憂鬱だった。