一人だけのトリアージ プロローグ トリアージ。 災害現場で、限られた人員と資源の中で、誰を優先的に救うか判断する行為。 東内光は、その言葉が嫌いだった。 しかし三年目の春、彼は気づいてしまった。 学校という場所でも、誰かが毎日トリアージをしている。 相談室のドアを叩く子どもは一日に十人。 だが東内光は一人しかいない。 誰かの話を聞いている間にも、別の誰かが壊れていく。 全員を救うことはできない。 その事実だけは、どうやっても変えられなかった。 東内光、二十六歳。 中学校の教育相談担当教員。 診断名はADHD。 机の上にはコーヒー缶が四本。 引き出しにはエナジードリンク。 鞄にはカフェイン錠剤。 医者には減らせと言われていた。 だが減らせば頭が動かなくなる。 書類は積み上がる。 会議では話を聞き逃す。 だから飲む。 飲んで働く。 働いて潰れる。 その繰り返しだった。 相談室の壁時計は朝八時を示していた。 そして今日も、ドアがノックされた。 「失礼します」 最初の来室者だった。 第一章 転び続ける少年 少年の名前は宮本悠真。 中学一年生。 入学してまだ二か月。 担任からの紹介だった。 「何かあった?」 東内が聞く。 悠真は黙っていた。 膝にばんそうこうが貼られている。 肘にも。 手の甲にも。 まるで毎日怪我をしているみたいだった。 「……また転んだ」 「どこで?」 「階段」 「急いでた?」 「普通」 東内は少し考えた。 担任からの引き継ぎを思い出す。 運動が極端に苦手。 箸の使い方が不器用。 ノートを書くのが遅い。 靴紐を結べない。 体育が地獄。 DCD。 発達性協調運動症。 身体の動きをうまく調整できない障害。 本人の努力不足ではない。 だが学校ではそう見てもらえないことが多い。 「みんな笑うんだ」 悠真が突然言った。 「何を?」 「転ぶと」 沈黙。 「今日も?」 「うん」 「嫌だったな」 「……」 「腹立った?」 「別に」 東内はその答えを信用しなかった。 中学生の「別に」は大抵別にじゃない。 数分後。 悠真はぽつぽつと話し始めた。 体育祭の練習。 リレー。 バトンを落とした。 クラス全員の前で。 笑われた。 ため息をつかれた。 「なんでそんなこともできないんだよ」 男子に言われた。 女子にも聞こえていた。 先生はフォローした。 でも。 その後もみんなの視線が痛かった。 「頑張ったのに」 悠真は言った。 「頑張ったのにできなかった」 東内は返事ができなかった。 努力すれば報われる。 学校はそう教える。 だがDCDは違う。 努力しても結果が出ないことがある。 そして周囲は努力不足だと思う。 「死にたいとか思う?」 東内は聞いた。 教育相談では必要な確認だった。 悠真は少し考えた。 「死にたいっていうか」 「うん」 「学校なくなればいいのに」 その言葉に東内は安心した。 まだ死にたいではない。 だが危険な方向へ進み始めている。 面談後。 東内は職員室へ向かった。 担任と話す。 体育教師とも話す。 合理的配慮を検討する。 リレーの参加方法。 評価基準。 怪我対策。 できることはある。 そう思った。 しかし翌週。 悠真は再び相談室へ来た。 目が赤かった。 泣いた後だった。 「どうした」 「動画」 「動画?」 「転んだところ撮られてた」 東内の背筋が凍った。 SNS。 クラスのグループチャット。 転ぶ映像。 編集。 笑い声。 スタンプ。 拡散。 中学生は残酷だ。 悪意がなくても残酷だ。 その日、学校は対応した。 削除指導。 保護者連絡。 学年集会。 だが。 動画は消えても記憶は消えない。 悠真は保健室登校になった。 相談室にも来なくなった。 夏休み前。 東内は校門近くで偶然悠真を見かけた。 母親と一緒だった。 病院へ向かう途中らしかった。 目が合った。 会釈だけした。 悠真も少し頭を下げた。 それだけだった。 二学期。 転校届が提出された。 理由は書かれていない。 東内は知っていた。 学校が嫌いになったのだ。 たぶん一生。 救えなかった。 完全には。 守れなかった。 十分には。 だがそれでも。 あの日相談室で話した時間だけは無意味ではなかった。 そう信じるしかなかった。 そして翌日もまた、相談室のドアがノックされる。 次に来たのは、誰とも会話が噛み合わない少女だった。 東内はコーヒーを一口飲んだ。 もう冷めていた 第二章 言葉の地図を持たない少女 九月。 相談室に来たのは二年生の女子だった。 名前は白石真昼。 成績は学年上位。 問題行動なし。 欠席も少ない。 教師から見れば優等生だった。 ただ一つだけ問題があった。 友達が一人もいない。 「先生、私おかしいですか」 開口一番だった。 東内は少し驚いた。 「どうしてそう思う?」 「みんなと話が合わないから」 真昼は膝の上で指を組んでいた。 緊張しているらしい。 「例えば?」 「みんな雑談するじゃないですか」 「うん」 「私、何を話せばいいかわからないんです」 真昼は説明した。 クラスメイトが 「昨日のテレビ見た?」 と聞く。 真昼は見ていない。 だから 「見てない」 と答える。 会話終了。 別の日。 「今日暑いね」 と言われる。 真昼は 「気温は三十二度です」 と返す。 相手は困る。 会話終了。 「間違ってますか」 真昼は真剣だった。 東内は言葉を選んだ。 「間違ってはいない」 「でも?」 「みんなは情報交換じゃなくて、気持ちの交換をしてることがある」 真昼は首を傾げた。 理解できないらしい。 その姿を見て東内は昔の自分を思い出した。 ADHDの診断を受ける前。 空気が読めないと言われ続けた頃。 なぜ怒られているかわからなかった。 真昼も似ていた。 ただ方向が違う。 彼女は他人の感情の地図を持っていない。 「みんなが笑う理由がわからないんです」 「うん」 「悲しい理由も」 「うん」 「だから嫌われます」 数週間後。 東内はソーシャルスキルトレーニングを始めた。 会話の練習。 雑談の練習。 相づちの練習。 だが真昼は疲弊していった。 「演技してるみたいです」 ある日そう言った。 「疲れる?」 「すごく」 「そうか」 「普通になれません」 東内は返事に困った。 学校は普通を求める。 だが真昼にとって普通は外国語だった。 努力すれば話せる。 でも自然にはできない。 冬。 真昼は相談室を卒業した。 友達はできなかった。 だが一人だけ。 図書委員の女子と本の話をするようになった。 毎日ではない。 親友でもない。 それでもゼロではなくなった。 「先生」 最後の日。 真昼が言った。 「私、人間嫌いじゃなかったみたいです」 「うん」 「わからないだけでした」 東内は少し笑った。 それだけで十分だった。 第三章 耳を塞ぐ少年 二学期の終わり。 担任が連れてきた。 一年生男子。 相沢蓮。 相談室に入るなり耳を押さえた。 「大丈夫?」 蓮は頷いた。 しかし顔色が悪い。 「教室入れないんです」 担任が言う。 「騒がしくて」 蓮は聴覚過敏だった。 人の話し声。 椅子を引く音。 チャイム。 笑い声。 全部が大きく聞こえる。 「どんな感じ?」 東内は聞いた。 蓮は少し考えた。 「みんなが怒鳴ってる感じ」 「ずっと?」 「ずっと」 東内は絶句した。 教室には三十五人いる。 つまり三十五人分の怒鳴り声を毎日浴びているようなものだ。 「サボりだって言われます」 蓮は言った。 「怠けてるって」 実際、言われていた。 教師にも。 生徒にも。 東内は校内で調整を始めた。 イヤーマフの許可。 別室利用。 テスト環境の配慮。 少しずつ改善する。 だが現実は甘くなかった。 三年生が蓮を見て笑った。 「赤ちゃんみたい」 イヤーマフを指差して。 翌日。 蓮は相談室で泣いた。 声を殺して。 必死に。 「普通になりたい」 それだけ繰り返した。 東内は何も言えなかった。 普通になりたい。 発達障害の子どもから何度も聞いた言葉だった。 だが誰も普通の定義を説明できない。 三学期。 蓮は完全な不登校にはならなかった。 午前だけ登校。 午後は別室。 それでも以前より笑うようになった。 相談室を出るとき。 蓮は言った。 「先生」 「ん?」 「ここ静かだから好き」 東内は 「それはよかった」 とだけ答えた。
第四章 消えたいノート 東内が彼女に出会ったのは一月だった。 三年生。 佐伯結衣。 受験生。 きっかけはノートだった。 教室の机の中から見つかった。 誰かが担任へ届けた。 最後のページ。 そこにはこう書かれていた。 消えたい 疲れた もう無理 担任は青ざめた。 すぐに相談室へつないだ。 結衣は静かな少女だった。 礼儀正しい。 成績優秀。 問題行動なし。 教師受けもいい。 保護者受けもいい。 だから誰も気づかなかった。 限界だったことに。 「死にたい?」 東内は聞いた。 教育相談の定型句ではない。 本気の質問だった。 結衣は少し考えた。 そして答えた。 「はい」 東内の胃が縮む。 「いつから?」 「半年くらい」 「方法は考えてる?」 「はい」 危険だった。 かなり。 その日から対応が始まった。 保護者連絡。 管理職共有。 医療機関紹介。 見守り体制。 だが。 結衣は賢かった。 そして苦しみを隠すのも上手かった。 二月。 相談室。 「少し楽になりました」 結衣は笑った。 東内は安心しかけた。 だが違和感があった。 何かが。 笑顔がきれいすぎた。 整いすぎていた。 「本当に?」 東内は聞いた。 「はい」 その瞬間。 東内は自分の勘を信じられなかった。 数日後。 電話が鳴った。 夜だった。 結衣が自殺を図った。 母親からの連絡だった。 未遂だった。 命は助かった。 だが集中治療室にいるという。 東内は言葉を失った。 あの日。 もっと踏み込めたか。 もっと聞けたか。 もっと何かできたか。 答えは出なかった。 春。 結衣は退院した。 高校受験は見送った。 通信制高校へ進む予定になった。 退院後。 一度だけ相談室へ来た。 痩せていた。 以前よりずっと。 「先生」 「うん」 「ごめんなさい」 東内は首を振った。 謝るのは違うと思った。 結衣は窓の外を見た。 校庭で子どもたちが騒いでいる。 「死ねなかったです」 小さな声だった。 東内は黙って聞いた。 「でも」 結衣は続けた。 「今はそれでよかったかもしれません」 長い沈黙。 「まだ死にたい日はあります」 「うん」 「でも毎日じゃなくなりました」 東内は初めて少しだけ肩の力を抜いた。 完全には救えなかった。 傷も残った。 苦しみも消えていない。 それでも。 あの日の結衣と今日の結衣は違った。 相談室の窓から夕日が差し込む。 結衣が帰ったあと。 東内は机に突っ伏した。 コーヒーの空き缶が五本。 頭痛。 動悸。 震える指。 助かった子もいる。 助からなかった子もいる。 救えた部分もある。 救えなかった部分もある。 そして東内自身もまた。 少しずつ壊れ始めていた。 第五章 先生も壊れる 三月。 卒業式が終わった。 相談室は少し静かになる。 だが東内光は静かになるほど苦しかった。 朝六時。 目が覚める。 いや。 正確には眠れていない。 二時間ほど気絶しただけだ。 枕元には空き缶。 コンビニのブラックコーヒー。 スマートフォンには未読メールが十四件。 職員会議の資料。 保護者対応。 生徒指導記録。 報告書。 ケース会議。 起きなければ。 そう思う。 身体が動かない。 机の上のカフェイン錠剤を飲む。 コーヒーも飲む。 胃が痛む。 でも頭は少しだけ動く。 「これヤバいな」 独り言だった。 誰もいない部屋で。 東内は知っていた。 依存している。 完全に。 それでも止められない。 飲まなければ仕事にならない。 飲めば身体が壊れる。 どちらを選んでも終わりだった。 職員室。 東内の机は散らかっていた。 提出書類。 メモ。 付箋。 生徒の記録。 ADHD。 診断を受けたのは大学四年だった。 忘れ物。 締切の失念。 衝動的な発言。 整理整頓の苦手さ。 注意の偏り。 ずっと怠け者だと思っていた。 努力不足だと思っていた。 診断名がついて救われた部分もある。 だが現実は変わらない。 締切は待ってくれない。 会議もなくならない。 書類も減らない。 「東内先生」 教頭に呼ばれる。 「先月の報告書なんだけど」 嫌な予感がした。 「提出されてないよ」 頭が真っ白になる。 提出したつもりだった。 本当に。 パソコンを確認する。 完成している。 印刷もしている。 だが提出していない。 東内は目を閉じた。 まただ。 頑張ったのに。 最後だけ抜ける。 子どもたちに何度も聞いた言葉だった。 今度は自分の番だった。 その日の午後。 相談室に生徒が来た。 一年生。 女子。 名前は川瀬莉乃。 「先生元気ないね」 東内は苦笑した。 「そう見える?」 「見える」 子どもは意外と見ている。 「先生も疲れるんだね」 当たり前なのに。 なぜか胸が痛んだ。 東内は答えられなかった。 相談室担当は聞き役だ。 支える側だ。 弱音を吐く役ではない。 だから黙る。 ずっと。 その夜。 職員室に残った。 午後九時。 校舎は静かだった。 パソコンの画面だけが光っている。 生徒記録を打ち込む。 宮本悠真。 転校。 白石真昼。 支援継続。 相沢蓮。 別室利用。 佐伯結衣。 自殺未遂。 名前を打つたびに顔が浮かぶ。 本当にこれでよかったのか。 もっとできたんじゃないか。 ずっと考える。 突然。 手が止まった。 動悸。 息が浅い。 視界が揺れる。 東内は椅子から立ち上がろうとした。 立てない。 呼吸が苦しい。 死ぬ。 そう思った。 救急車。 過呼吸。 パニック発作。 診断結果だった。 病院のベッド。 白い天井。 医師が言った。 「休んでください」 東内は笑った。 無理だ。 学校は四月になる。 新学期が始まる。 相談室にはまた子どもたちが来る。 休めるわけがない。 「このままだと倒れます」 医師は言った。 東内は答えなかった。 その時だった。 病室のテレビでニュースが流れた。 十代の自殺者数。 過去最多。 東内は目を逸らした。 助けられなかった子の顔が浮かんだ。 実はいた。 結衣だけではない。 中学校へ来る前。 教育実習先。 一人の生徒が亡くなった。 何もできなかった。 今でも夢に出る。 だから働く。 だから休めない。 だから壊れる。 悪循環だった。 数日後。 東内は学校へ戻った。 職員室。 相談室。 いつもの景色。 机の上には新しいケースファイル。 新入生。 不登校傾向。 家庭問題あり。 要注意。 東内はため息をついた。 「また始まるな」 コーヒーを飲もうとして手を止めた。 代わりに水を飲む。 まずかった。 でも少しだけ笑った。 その時。 相談室のドアがノックされた。 「失礼します」 知らない声だった。 新一年生。 小柄な男子。 顔色が悪い。 目の下に隈がある。 「どうした?」 少年は言った。 「先生」 「うん」 「僕、人を殺したくなるんです」 東内の背筋が凍った。 相談室の新年度は、その一言から始まった。