だが海斗は少し違った。 耳が痛いのではない。 脳が疲れるのだという。 一時間教室にいるだけで、頭が真っ白になる。 「家では?」 「静か。」 「だから元気?」 「うん。」 「学校だけ?」 「学校だけ。」 十二月。 東内はようやく教室を見に行った。 海斗の席は一番後ろ。 窓際。 周囲の生徒は普通に接している。 いじめられている様子もない。 孤立しているわけでもない。 担任も困っていた。 「理由が分からないんです。」 「教室に入ると具合が悪くなるだけで……。」 その日の放課後。 海斗がぽつりと言った。 「先生はさ。」 「うん。」 「教室って静かだと思う?」 「いや。」 「だよね。」 海斗はゆっくり話し始めた。 「みんな一斉にしゃべるでしょ。」 「うん。」 「笑う人。」 「机動かす音。」 「廊下走る音。」 「時計。」 「蛍光灯。」 「全部同じ大きさで聞こえる。」 東内は蓮のことを思い出した。 だが海斗は少し違った。 冬休み前。 専門機関で検査を受けることになった。 結果は、感覚過敏と強い不安傾向が重なっている可能性が高いというものだった。 診断名がすべてではない。 けれど理由が見えたことで、学校側も対応しやすくなった。 三学期。 海斗は一時間目だけ教室に入る練習を始めた。 無理な日は保健室へ戻る。 できた日は担任が何も言わず迎える。 「今日は入れたね。」 そんな言葉さえかけない。 特別扱いをしないためだった。 二月。 ある日の昼休み。 海斗が相談室へやって来た。 東内は少し驚いた。 「初めてだな。」 「うん。」 部屋を見回す。 「静かだ。」 「そういう部屋だから。」 「悪くない。」 その一言だけだった。 十分だった。 卒業式の日ではなく、修了式の日。 海斗は相談室のホワイトボードに勝手に一行だけ書いた。 『また来てもいい?』 東内はマーカーを受け取り、その下に書く。 『いつでも。』 海斗は消しゴムでその二行を消した。 「残さないんだ。」 「うん。」 「なんで?」 「ここに来たこと、みんなに知られたくないから。」 東内は何も言わなかった。 相談室は、誰かの秘密を守る場所でもある。 海斗は最後に小さく頭を下げた。 「先生。」 「うん。」 「話すって疲れるね。」 「疲れる。」 「でも。」 少し間があく。 「一人で考えるよりは楽だった。」 相談室のドアが閉まる。 東内は誰もいなくなった部屋で、コーヒーではなく温かいお茶を淹れた。 優斗を救えなかった後悔は消えない。 紗英の手紙も引き出しに残っている。 そして海斗は、まだ支援の途中にいる。 東内は改めて思う。 相談室は奇跡を起こす場所ではない。 誰かの人生を劇的に変える場所でもない。 けれど、ほんの少しだけ「明日も来てみよう」と思える時間をつくることはできる。 それが、この小さな部屋にできる精一杯のことだった。 第八章 助けを求めたのはたのは母親だった 十一月の雨は冷たかった。 相談室の窓を細かな雨粒が叩いている。 昼休みが終わる頃、職員室の電話が鳴った。 教頭が東内を呼ぶ。 「相談室を使ってもいいか?」 「生徒ですか?」 「いや、お母さんだ。」 東内は少し首をかしげた。 保護者面談は珍しくない。 だが、担任ではなく相談室を希望する保護者は多くなかった。 午後三時。 約束の時間ぴったりに、その女性はやってきた。 四十代前半くらい。 髪はまとめているが、どこか乱れている。 目の下には濃い隈があった。 「初めまして。」 「東内です。」 「……山口と申します。」 声は小さく、何度も言葉が途切れた。 「今日はどうされましたか。」 その一言で、女性は黙り込んだ。 バッグを握る手だけが震えている。 東内は急かさなかった。 時計の音だけが部屋に響く。 五分ほどして、女性がぽつりと言った。 「先生。」 「はい。」 「私、もう息子が怖いんです。」 東内は姿勢を少し正した。 「怖い、と言いますと?」 「怒ると物を投げるんです。」 「……。」 「壁も蹴ります。」 「お母さんに手を上げることは?」 「今のところはありません。」 『今のところ』 その言葉が重かった。 息子の名前は山口蒼太。 一年生。 相談室には来たことがない。 学校では静かな生徒だった。 提出物も出す。 授業も受ける。 問題行動もない。 担任も驚いていた。 「学校では本当に普通なんです。」 家では違った。 帰宅すると部屋へ閉じこもる。 夕食の時間に呼ぶと怒鳴る。 スマートフォンを取り上げようとすると暴れる。 夜中までゲーム。 朝は起きられない。 母親は仕事へ行き、帰宅すると家の中は荒れている。 「毎日、何か壊れてるんです。」 女性は苦笑した。 その笑顔は疲れ切っていた。 「誰かに相談されましたか。」 「親戚には。」 「何と言われました?」 「甘やかしたからだって。」 「……。」 「もっと厳しく育てればよかったねって。」 東内はその言葉を何度も聞いてきた。 親は原因を探される。 そして、自分を責め始める。 「先生。」 「はい。」 「私、母親失格でしょうか。」 東内はすぐには答えなかった。 「そう思う出来事があったんですね。」 女性は小さくうなずいた。 「昨日。」 「はい。」 「息子が寝たあと。」 「……。」 「この子がいなかったら楽なのに、って思いました。」 言った瞬間、女性は両手で顔を覆った。 「最低ですよね。」 涙が止まらなかった。 東内はティッシュを差し出した。 「子育てが苦しいと思うことと、お子さんを大切に思っていることは、両立します。」 女性は驚いたように顔を上げた。 「両立……?」 「苦しいからといって、愛情がないとは限りません。」 その言葉を聞いた女性は、しばらく泣き続けた。 その後、東内は学校だけで抱え込まない方針を提案した。 家庭だけの問題にしないこと。 医療や地域の相談機関につなぐこと。 父親も面談に参加してもらうこと。 母親一人で背負わないこと。 「全部できなくても、一つずつでいいんです。」 女性は何度も頭を下げた。 数週間後。 蒼太本人が初めて相談室へ来た。 椅子に座るなり言った。 「母さん、来たんでしょ。」 「来たよ。」 「余計なこと話したんだ。」 「お母さんは困っていた。」 蒼太は舌打ちをした。 「俺だって困ってる。」 その一言で、東内は空気が変わったことを感じた。 「何に困ってる?」 蒼太は黙っていた。 十分近く沈黙が続いた。 そして、小さく言った。 「止められない。」 「何が?」 「イライラ。」 「怒り?」 「うん。」 「怒りたくない。」 「でも止まらない。」 拳を見つめながら続ける。 「怒ったあと、毎回後悔する。」 東内は初めて、学校で見せる「静かな蒼太」と家で見せる「暴れる蒼太」が別人ではないと理解した。 同じ苦しみの、表と裏だった。 その後、蒼太は定期的に相談室へ通うようになった。 怒りはすぐには消えなかった。 家での衝突も続いた。 それでも、一つだけ変わったことがある。 ある日の帰り際、蒼太が照れくさそうに言った。 「先生。」 「うん。」 「昨日さ。」 「うん。」 「キレそうになったから、部屋出た。」 「どうだった?」 「壁は壊さなかった。」 東内は笑った。 「それは大きな一歩だ。」 蒼太は照れ隠しのように肩をすくめた。 「まだ全然だけど。」 「全然でもいい。」 「少しずつだから。」 その夜、東内は相談記録を書きながら思った。 学校では、子どもだけを見ていては足りない。 子どもの後ろには家族がいる。 家族の後ろには、また別の苦しみがある。 相談室のドアを開けるのは、生徒だけではない。 助けを求める大人もまた、この学校には確かにいるのだった。