今年もついにこの季節がやってきましたね! そうです、7月は黄山伐の戦いが起こった月ですね!!! ★分からない人のための超ざっくりとした説明 昔、日本と仲の良かった「百済」という国が国家存亡をかけて、10倍以上とも言われる新羅軍と対峙し、はかなく散った戦いです。 詳しく知りたい人はGGZZRRに聞いてください! 500字ギチギチの怪文書を送り付けてやりますよ!() 集中線 https://scratch.mit.edu/projects/597825564/ 音楽 ようつべ (韓国ドラマ「階伯」OST) 誰も読まないであろう解説(これでも文字数減らした方) 7世紀の朝鮮半島はまさに動乱機であった。百済で741年に義慈王が武王の死に伴い王座につき、31代王として君臨した。義慈王は「海東曽子」と呼ばれ、名前の通り慈悲深く、義理堅い人格であったとされている。 高句麗では、親唐保守派の栄留王が反唐強硬派の淵蓋蘇文に暗○され、淵蓋蘇文は傀儡である宝蔵王を擁立し、自ら莫離支の座につき実権を握った。 そして高句麗と百済、両国は互いに軍事同盟を結び、新羅を討たんとした。 新羅がは二正面作戦を余儀なくされ、義慈王は自ら親征し40余の城を落とし、高句麗も30以上の城を攻略した。 まさに100年前の聖王の屈辱を晴らすかのようであった。高句麗も強大な敵である中華帝国・唐をまたも跳ね除け勝利を収めた。 しかし二国の同盟は唐と新羅の急接近を許し、660年に新羅は百済に5万の軍勢を送り、それに呼応するように唐は海上から13万の兵を送り、百済は国家存亡の危機に立たされた。 新羅戦線を任されたのは百済屈指の名武将「階伯」であった。階伯は決死隊5000を率い、愛する妻子を手にかけ、黄山伐に陣を構えた。 660年7月9日、金庾信率いる新羅軍50,000と階伯率いる百済軍5,000による戦いが始まった。兵数が圧倒的に劣っていた百済サイドであったが、新羅軍はなかなかこれを落とすことができず退却。計4度の攻勢に耐え抜いた。 しかし花郎の死の甲斐あって、新羅軍の士気は最高潮に達し5度目の攻撃にて勝利を収め、階伯は戦死。5,000人がほぼ全滅した戦いであった。 階伯将軍の抵抗の甲斐あって唐との合流に遅れた新羅であったが、その後王都泗沘を落とし、百済は一旦ここで終わるのであった。 その後、666年に淵蓋蘇文がこの世から去り、息子たちに「魚と水のように仲良くしろ」と忠告するも、その約束は果たされず莫離支の座を巡って争い、唐に付け入る隙を見せ、新羅唐両軍から攻められ高句麗も滅亡した。 #ポーランドボール