第一章 灰色の朝に、やさしい声は降る ――人は壊れる瞬間だけが、不幸なのではない。 本当に恐ろしいのは。 壊れていることに、気づけなくなる朝だ。 目覚ましが鳴るより早く、私は目を開けた。 時計は午前四時二十分。 まだ空は夜の色を残していて、窓の向こうには冷たい雨が降っている。 黒い髪を軽く整え、猫耳を隠すためのフードを被る。 鏡に映る私は、眠そうな目をしたまま、小さく笑った。 「……今日も、お仕事。」 その一言だけで胸が重くなる。 四菱インダストリアル・グループ。 民間軍事会社。 表向きは防衛技術、災害支援、警備事業。 裏では国家間の均衡を支える巨大企業。 世界は平和を望んでいると言う。 でも、その平和は誰かが眠れない夜を積み重ねて成り立っている。 その"誰か"が、私だった。 電車は始発なのに満員だった。 みんな同じ顔をしている。 眠そうで。 疲れていて。 それでも会社へ向かう。 私も、その中の一人だった。 会社へ着く頃には、空は白く染まり始めていた。 「メガドラ、おはよう。」 優しい声だった。 振り向く。 高い背。 端正な横顔。 少しだけ無造作な髪。 ウェスタン課長は、いつも穏やかに笑う。 「おはようございます……。」 「また始発?」 「はい。」 「昨日も終電だったよね。」 私は曖昧に笑った。 「大丈夫です。」 その言葉は癖だった。 大丈夫じゃない時ほど、自然に出る。 ウェスタンは少しだけ眉を下げた。 「君は、大丈夫って言い過ぎる。」 その言葉だけが、不思議なくらい胸に残った。 仕事は終わらない。 資料。 報告書。 契約書。 兵站管理。 海外との通信。 緊急案件。 「悪い、これ今日中。」 「メガドラさん、これもお願い。」 「急ぎだから。」 「頼れるの君しかいない。」 断れなかった。 期待されるのは嬉しい。 役に立てるのは幸せ。 そう思い続けてきた。 だから。 今日も笑って受け取る。 「はい。」 その一言だけで、一日が終わっていく。 昼休み。 机でコンビニのおにぎりを開けようとした時だった。 「またここで食べてる。」 ウェスタンだった。 紙袋を机へ置く。 「これ。」 中には温かいサンドイッチとスープ。 「え……。」 「栄養ないと倒れる。」 「でも……。」 「上司命令。」 少し照れくさそうに笑う。 私は小さく頭を下げた。 「ありがとうございます。」 スープは驚くほど温かかった。 冷え切っていた身体へ静かに染み込んでいく。 その温度だけで。 少しだけ。 本当に少しだけ。 泣きそうになった。 夜。 会社を出る頃には二十三時を回っていた。 外は雨だった。 傘を忘れた。 まあいいか。 濡れて帰ろう。 そう思った瞬間。 頭上から雨が消えた。 「送る。」 ウェスタンだった。 「課長……。」 「方向一緒。」 本当は違う。 それくらい私は知っていた。 でも。 何も言わなかった。 帰り道。 二人ともほとんど話さない。 雨音だけが歩道を満たしている。 「仕事。」 ぽつりとウェスタンが言う。 「苦しい?」 私は少し考えてから答えた。 「……好きです。」 「仕事が?」 「誰かの役に立てるから。」 「自分は?」 言葉が止まる。 自分。 そんなこと、考えたこともなかった。 「私は……。」 答えが見つからない。 ウェスタンはそれ以上聞かなかった。 静かな沈黙だけが続く。 マンションへ着く。 「じゃあ。」 「メガドラ。」 名前を呼ばれる。 振り返る。 ウェスタンはいつもの優しい笑顔だった。 「無理だけはしないで。」 その笑顔は。 本当に優しかった。 だから私は知らなかった。 その優しさの奥にあるものを。 数日後。 昼休み。 会社近くのカフェで、一人の女性と向かい合っていた。 朱色の髪。 ゆるく編み込まれたハーフアップ。 着物とワンピースを合わせたような、不思議な服。 柔らかな笑顔。 「えへぇ〜、また顔色悪いですねぇ。」 夢見夜依月は、困ったように笑った。 ライバル企業――TeraBalance Corporationで働く友人。 仕事柄、会社同士は競合でも、私たちの友情は変わらなかった。 「忙しくて……。」 「うへぇ〜。その"忙しい"は危険なやつですよぉ。」 依月の声は不思議だった。 柔らかい。 温かい。 話しているだけで、肩の力が抜けていく。 「転職とか、考えたことありません?」 「え?」 「うちは福利厚生、ちゃんとしてますよぉ。」 冗談めかして笑う。 私も少しだけ笑った。 そんな未来。 あるのだろうか。 会社を辞める。 違う場所で働く。 そんな選択肢を、私は考えたこともなかった。 窓の外では雨が止み、薄い陽射しが街を照らしていた。 その光が、どこか遠いものに思えた。 まるでまだ知らない未来だけが、そこにあるように。 そして、その少し離れた場所から。 こちらを静かに見つめる視線があったことを。 その時の私は、まだ知らなかった。 視線というものは、不思議だ。 見られていると気づく前に、身体が先に知ってしまうことがある。 首筋が、ひやりと冷えた。 私は思わず振り返った。 人混み。 スーツ姿の会社員。 傘を畳む人。 信号を待つ学生。 誰もこちらを見ているようには思えない。 「どうかしましたぁ?」 依月がストローをくるりと回しながら、小首をかしげた。 「……ううん。なんでもない。」 「えへぇ〜。疲れてると、そういうことありますからねぇ。」 そう言って笑う彼女の声は、春風みたいに穏やかだった。 私はつられて笑う。 それだけで、さっきまで胸にあった違和感が少しだけ薄れていく。 「依月は、相変わらずすごいね。」 「うへぇ〜?」 「話してるだけで落ち着く。」 「お仕事柄ですからぁ。」 照れたように頬をかく依月を見ていると、自然と肩の力が抜けた。 TeraBalance Corporation。 世界の均衡を守るための技術を生み出す巨大企業。 ライバル会社でありながら、その理念は「抑止力による平和」。 四菱とは違う形で、世界を支えようとしている。 会社は違う。 けれど、依月だけは昔から変わらなかった。 誰に対してもやわらかくて。 誰の痛みも、否定しない。 「……メガドラさん。」 「ん?」 「ちゃんと眠ってます?」 その問いに、私は少しだけ考える。 「……四時間くらい。」 依月は、ゆっくりと目を伏せた。 「それはぁ、眠ってるうちに入りませんよぉ。」 困ったように笑っているのに、その瞳だけが静かに曇っていた。 「猫耳さんは、休むのもお仕事です。」 その言葉に、私は思わず耳へ手を伸ばす。 黒い猫耳。 髪の上からちょこんと生えた、本物の耳。 昔から私の身体の一部だった。 感情が動くと、少しだけ揺れる。 恥ずかしいと寝てしまって。 驚くとぴんと立つ。 今も依月に見られていると思うと、少しだけ耳が伏せた。 「ふふ。」 依月が小さく笑う。 「また寝ちゃいました。」 「……見ないで。」 「かわいいですからぁ。」 「……。」 耳まで熱くなる。 猫耳は隠そうとして隠せるものではない。 子どものころは、よく触られた。 珍しいね、と言われた。 かわいいね、と笑われた。 大人になってからは、みんな気を遣って触れなくなったけれど。 それでも視線だけは、変わらない。 だから私は、フードを被ることが多かった。 隠せるなら、そのほうが楽だった。 会社へ戻る途中。 エレベーターの鏡に、自分の姿が映る。 黒髪。 少し眠たそうな目。 黒い猫耳。 くたびれたスーツ。 「……疲れてるなぁ。」 思わず漏れた独り言に、耳だけがぴくりと動いた。 「疲れてる。」 後ろから声がした。 驚いて振り向く。 ウェスタンだった。 「課長。」 「鏡見ながら独り言。」 「聞かれてましたか……。」 少し恥ずかしくなる。 耳がまた寝てしまう。 ウェスタンはそれを見て、ふっと笑った。 「耳、正直だな。」 「……感情がすぐ出るので。」 「かわいい。」 あまりにも自然に言われて。 私は言葉を失った。 「え……。」 「……あ。」 今度はウェスタンのほうが少し気まずそうに目をそらした。 「悪い。」 「いえ……。」 沈黙。 エレベーターだけが静かに上っていく。 数字が、一階ずつ増えていく。 その間も。 私は自分の猫耳が落ち着かないくらい動いているのを止められなかった。 こんなふうに真正面から褒められたのは、いつ以来だろう。 「メガドラ。」 「はい。」 「無理して笑わなくてもいい。」 その一言は、小さかった。 でも。 胸の奥へ、静かに落ちていく。 私はいつからだろう。 笑うことが癖になって。 「大丈夫」と言うことが習慣になって。 疲れた、と口にできなくなったのは。 エレベーターの扉が開く。 仕事が、また始まる。 それでも。 ほんの少しだけ。 胸の奥に灯った小さな温度は、まだ消えずに残っていた。
第二章 やさしさは、檻の形をしていなかった ――人は、安心した瞬間に一番弱くなる。 疑うことをやめた心は、 少しずつ、自分の輪郭を失っていく。 朝六時。 会社のビルは、まだ眠っている街を見下ろしていた。 ガラス張りの窓へ朝焼けが映り込み、赤く滲んだ空がゆっくりと昼へ溶けていく。 私は社員証をかざし、自動ドアを抜けた。 「おはようございます。」 返事はまだ少ない。 静かなフロアには、コピー機の低い音だけが流れていた。 私は机へ鞄を置き、パソコンを立ち上げる。 モニターの光が暗い部屋を照らした。 未読メール、百七十二件。 新規案件、十九件。 修正依頼、三十二件。 私は何も考えず、それらを一つずつ開いていく。 考え始めたら、きっと手が止まってしまうから。 だから私は、機械みたいに働く。 感情を置き去りにして。 ただ、目の前の仕事だけを片づける。 そんな朝だった。 「……また一番乗りか。」 聞き慣れた低い声。 振り返ると、ウェスタンがコーヒーを片手に立っていた。 「課長、おはようございます。」 「おはよう。」 彼は私の机の横まで来ると、モニターへ目を向ける。 「メール全部開いてるのか。」 「はい。」 「今届いた分も?」 「はい。」 小さく息を吐く音がした。 「真面目すぎる。」 私は困ったように笑うしかなかった。 「放っておけないので……。」 「だから君ばっかり仕事が増える。」 図星だった。 断れない。 頼られると嬉しい。 期待されると応えたくなる。 そうしているうちに、いつの間にか誰よりも仕事を抱えている。 でも、それでよかった。 誰かの役に立てるなら。 それだけで十分だと思っていた。 昼過ぎ。 書類を抱えて廊下を歩いていると、急に視界が揺れた。 床が遠くなる。 足元から力が抜ける。 「あ……。」 書類が滑り落ちる。 白い紙が廊下へ散った。 倒れる。 そう思った瞬間だった。 「メガドラ!」 腕を掴まれる。 温かい手だった。 ウェスタンが私の身体を支えていた。 「立てるか?」 「……すみません。」 「謝るな。」 その声は少しだけ強かった。 私を責める強さではない。 誰かを守ろうとする強さ。 私は小さく頷く。 「保健室へ。」 「でも仕事が……。」 「仕事より先。」 「まだ資料が……。」 「メガドラ。」 名前を呼ばれる。 静かな声だった。 でも逆らえないほど優しかった。 「休め。」 その一言だけで、胸が締めつけられる。 休んでいい。 そんな言葉を、会社で言われたのは初めてだった。 夕方。 スマートフォンが震えた。 画面には、 夢見夜 依月 の文字。 「もしもし。」 『えへぇ〜、お仕事終わりましたぁ?』 「まだ。」 『やっぱりぃ。』 依月は苦笑しているようだった。 『今度、ご飯行きませんかぁ?』 「うん。」 『あとですねぇ。』 少しだけ間が空く。 『もし転職とか考えることがあったら、いつでも相談してくださいねぇ。』 私は思わず笑った。 「またその話。」 『うへぇ〜。だって心配なんですもん。』 その優しさが、電話越しでも伝わってくる。 「ありがとう。」 『無理しないでくださいねぇ。』 電話が切れる。 静かなオフィス。 私は窓の外を見る。 街にはもう灯りがともり始めていた。 その景色を見つめながら、ふと考える。 転職。 そんな未来も、あるのだろうか。 夜十一時。 ようやく退勤した私は、会社のロビーで立ち止まった。 今日は雨が降っていない。 空には細い月が浮かんでいる。 「帰るか。」 そう呟いた時だった。 「送る。」 また、ウェスタンだった。 最近、偶然が多い。 偶然。 そう思っていた。 「今日は大丈夫ですよ。」 「そうか。」 彼は少しだけ笑った。 「じゃあ駅まで。」 「……はい。」 並んで歩く。 夜風が猫耳を揺らした。 少しだけ冷たい。 ウェスタンは歩幅を私に合わせて歩く。 何も言わない。 急かさない。 その沈黙が、不思議と心地よかった。 「猫耳。」 「はい?」 「寒くないか。」 思わず耳を押さえる。 「大丈夫です。」 「そうか。」 彼は自分のマフラーを外した。 「でも巻いとけ。」 「え?」 「風邪ひく。」 断ろうとした。 でも。 彼はもう私の首へそっとマフラーを巻いていた。 柔らかい布地。 ほんのり残る体温。 私は何も言えなかった。 「返すの明日でいい。」 「……ありがとうございます。」 その瞬間だった。 道路の向こう。 街灯の下。 誰かが立っている気がした。 長いコート。 帽子を深くかぶった人影。 こちらを見ている。 そんな気がして目を凝らす。 しかし、車のライトが横切った次の瞬間には、その姿は消えていた。 「どうした?」 「……いえ。」 見間違いだろうか。 疲れているから。 そう思うことにした。 けれど。 夜風はさっきより少しだけ冷たくなっていて。 私の猫耳は、理由もなく小さく震えていた。 そして、その誰にも気づかれない街のどこかで。 四菱インダストリアル・グループの社員データへアクセスする、ひとつの不正な通信が静かに開始されていた。 画面には、無機質な文字列だけが浮かぶ。 〈Λ-system 観測者権限 接続完了〉 誰もまだ、その名前を知らない。 けれど見えない場所では、何かが静かに動き始めていた。 https://scratch.mit.edu/projects/1351038101/