第三章 優しさの輪郭 ――優しさは、ときどき境界線を失う。 誰かを守りたいという願いは。 ほんの少し形を変えるだけで、 相手の自由を奪う理由になってしまう。 朝。 デスクに置かれた湯気の立つコーヒー。 頼んだ覚えはない。 「朝は冷えるから。」 振り返ると、ウェスタンが穏やかに笑っていた。 「ありがとうございます。」 「昨日も三時間しか寝てないだろ。」 思わず動きが止まる。 「……どうして。」 「顔を見れば分かる。」 そう言って笑う。 けれど、その言葉は胸に小さな棘を残した。 本当に、それだけだろうか。 それからだった。 私が資料を探そうとすると、もう机に置かれている。 重い荷物を運ぼうとすると、誰かが先に持っている。 残業をすると、ウェスタンもなぜか同じ時間まで残っている。 偶然。 そう思おうとした。 でも偶然は、何度も続くと少しずつ形を変えていく。 昼休み。 スマートフォンが震えた。 『えへぇ〜、今日お昼、一緒に食べませんかぁ?』 依月からのメッセージだった。 その文章を見た瞬間、肩の力が抜ける。 「行こう……。」 そう呟いたところで、背後から声がした。 「今日は外?」 振り向く。 ウェスタンだった。 「……友達と。」 「そうか。」 笑っている。 いつもと同じ笑顔。 なのに、その一瞬だけ目が笑っていないように見えた。 気のせい。 そう思いたかった。 依月はいつものように柔らかく笑って迎えてくれた。 「うへぇ〜、顔色が昨日より悪いですねぇ。」 「そんなに?」 「はい。」 依月は少しだけ真剣な顔になる。 「会社で何かありました?」 私は答えようとして、言葉が止まる。 何もされていない。 責められてもいない。 むしろ、優しくされている。 なのに。 「……少し、不思議で。」 「不思議?」 「課長が、何でも知ってる気がして。」 依月は静かに耳を傾ける。 「残業したことも、ご飯を食べてないことも、寝不足も……全部。」 「えへぇ……。」 依月は少し考えてから言った。 「心配してくださってるのかもしれません。でも……」 彼女はそこで言葉を選ぶように視線を落とした。 「心配と、相手の生活を把握しようとすることは、同じじゃありません。」 私は黙ってコーヒーカップを見つめた。 湯気がゆっくりと消えていく。 その様子が、どこか自分の心に似ている気がした。 会社へ戻る途中。 ビルのガラスに映る自分の姿を見る。 黒い猫耳が、落ち着かなさそうに小さく揺れていた。 理由は分からない。 けれど、本能だけが何かを警戒しているようだった。 私はまだ知らない。 誰かの「守りたい」という気持ちが。 どこから「見張りたい」という願いへ変わるのかを。 そして、その境界線を。 その日の残業は、日付が変わる頃まで続いた。 蛍光灯だけが白く天井を照らしている。 昼間は人の声で満ちていたフロアも、今はキーボードを叩く音だけが響いていた。 私は目をこすり、小さく息を吐く。 画面の文字が少し滲む。 疲れている。 そう思っても、手は止まらない。 止めてしまえば、明日の自分がもっと苦しむだけだから。 「まだ終わらないか。」 静かな声。 ウェスタンだった。 「課長……まだいたんですか。」 「君が帰ってないから。」 その返事に、私は少しだけ笑う。 「仕事、残ってるんですか?」 「もう終わった。」 「じゃあ……。」 「待ってた。」 その一言だけが、静かなオフィスに落ちた。 私は返す言葉を探した。 「……ありがとうございます。」 そう言うしかできなかった。 ウェスタンは私のデスクへ近づき、散らばった書類を見回す。 「これは全部、今日中じゃない。」 「でも……。」 「誰が今日中って言った?」 「皆さんが……。」 「"急ぎ"って言われると全部引き受ける。」 図星だった。 私は猫耳を伏せる。 そんな私を見て、ウェスタンは苦笑する。 「断ることも仕事だ。」 「苦手なんです。」 「知ってる。」 迷いなく返ってきた言葉に、少しだけ胸がざわついた。 "知ってる。" その響きは優しかった。 けれど。 どこか、自分でも知らない自分まで見透かされているようで。 帰り道。 都会の夜は静かだった。 街灯が濡れた歩道を照らし、アスファルトは夜空を映している。 私の猫耳が風に揺れる。 「寒いか。」 「少しだけ。」 ウェスタンは歩幅を緩めた。 「メガドラ。」 「はい。」 「君は、人に頼るのが下手だ。」 「そうでしょうか。」 「そうだ。」 間を置かずに返ってくる。 「君は誰かのためなら徹夜できる。でも、自分のためには何もしない。」 私は苦笑した。 否定できない。 「課長は……よく見てますね。」 ウェスタンは少し黙った。 そして、小さく笑う。 「見てるからな。」 その言葉に、なぜか猫耳がぴくりと動いた。 「部下だから。」 付け加えるように言う。 私はそれ以上考えないことにした。 考えすぎるのは、疲れている証拠だ。 翌日。 依月から一通のメッセージが届いた。 『えへぇ〜、今週の土曜日、お暇ですかぁ?』 『よかったら、お茶でもしませんかぁ。』 自然と笑みがこぼれる。 『うん、行きたい。』 送信ボタンを押そうとした、その時だった。 「依月さんか。」 声に驚き、スマートフォンを落としかける。 ウェスタンが後ろに立っていた。 「課長……。」 「悪い、驚かせた。」 彼は画面から目を離し、いつもの穏やかな表情に戻る。 「友達なんだな。」 「はい。」 「TeraBalanceの。」 「そうです。」 「そうか。」 それだけ言って歩き去っていく。 その背中を見送りながら、私は胸に残る違和感を拭えなかった。 画面は、一瞬しか見えていなかったはずなのに。 依月の名前を、迷いなく口にした。 偶然。 たまたま見えた。 そう思おうとする。 けれど、その"偶然"が少しずつ積み重なっていく。 昼休み。 依月と向かい合って座る。 「うへぇ〜。」 彼女は私を見るなり眉を下げた。 「また眠れてませんねぇ。」 「分かる?」 「猫耳さんが元気ないですもん。」 私は思わず耳に触れる。 確かに、力なく垂れていた。 依月は温かい紅茶を私の前へ寄せる。 「最近、何かありました?」 「……うん。」 私は少しだけ迷ってから話し始めた。 「課長が、すごく優しいの。」 「えへぇ〜。」 「でも……。」 言葉が詰まる。 優しい。 本当に優しい。 それなのに。 「少しだけ……息が詰まる時がある。」 依月は何も言わない。 急かさず、否定せず、ただ静かに待ってくれる。 その沈黙がありがたかった。 「優しくされてるだけなのに、こんなこと思うなんて失礼だよね。」 依月はゆっくり首を横に振った。 「感じた違和感は、大切にしていいんですよぉ。」 柔らかな声だった。 「誰かを信じることと、自分の心を後回しにすることは違いますからぁ。」 その言葉は、私の胸の奥へ静かに沈んでいった。 窓の外では、夏の雲がゆっくりと流れている。 その穏やかな景色とは裏腹に。 四菱インダストリアル・グループ本社の地下サーバールームでは、誰にも知られないアクセスログが一つ増えていた。 画面に表示されたのは、短い報告。 《対象:メガドラ》 《交友関係:夢見夜依月(TeraBalance Corporation)》 《監視継続》 その報告書を見つめる人物は、静かにモニターの光を見返していた。 表情は読めない。 部屋には空調の音だけが響いていた。 思っているより、ずっと静かに消えてしまうことを。
第四章 世界は、誰かの瞳に映されている ――壊れる音は、案外静かだ。 骨が砕ける音でもない。 ガラスが割れる音でもない。 「もう大丈夫です。」 そう笑ってしまう、その一言が。 人の心を、一番静かに壊していく。 朝だったのか。 夜だったのか。 もう分からなかった。 会社の窓から見える空は灰色で、時計だけが規則正しく秒針を刻んでいる。 私はキーボードを叩く。 指先の感覚が薄い。 肩は重く。 瞼は鉛のようだった。 「メガドラ。」 誰かに呼ばれた。 返事をしようとして。 立ち上がろうとして。 視界が、真っ白になる。 世界が傾く。 猫耳がぴくりと震えた。 床が近づく。 「危ない!」 誰かが身体を支えた。 遠くで、何人もの声が重なる。 「救急車!」 「いや保健室!」 「意識あるか!」 その騒ぎが、ひどく遠い。 私はただ。 眠りたかった。 目を覚ます。 保健室だった。 白い天井。 消毒液の匂い。 カーテンの隙間から、午後の光が差し込んでいる。 「起きたか。」 ウェスタンだった。 椅子へ腰掛けたまま、本を閉じる。 その顔には安堵が浮かんでいた。 「課長……。」 「倒れた。」 「……すみません。」 「謝るな。」 少しだけ声が震えていた。 怒っているのではない。 何かを必死に押し殺しているような。 そんな震えだった。 「医者にも行け。」 「仕事が。」 「仕事は俺が止めた。」 「でも。」 「メガドラ。」 静かな声。 「君がいなくなったら、仕事なんかどうでもいい。」 私は目を見開く。 その言葉は。 あまりにも真っ直ぐだった。 ウェスタン自身も言ったあとで気づいたのか、小さく息を吐く。 「……言い過ぎた。」 そう笑う。 けれど。 その笑顔はどこか苦しそうだった。 夜。 マンションへ戻る。 部屋は暗い。 冷蔵庫には何もない。 夕飯を作る気力も残っていなかった。 私はソファへ倒れ込む。 そのままスマートフォンを手に取る。 連絡先。 指が止まる。 夢見夜 依月 その名前を見るだけで、胸が少し軽くなった。 「……会いたい。」 助けてほしい。 そんな言葉は重すぎる。 でも。 少しだけ話したい。 あの穏やかな声を聞きたい。 そう思った。 私は電話をかけようとする。 その時だった。 部屋の照明が、一瞬だけ明滅した。 ピッ。 小さな電子音。 聞き慣れない音だった。 「……?」 猫耳がぴんと立つ。 誰かの気配。 窓の外ではない。 玄関でもない。 もっと近く。 もっと静かな場所。 私はゆっくり振り返る。 そこには、一人の女性が立っていた。 いつから。 そこにいたのだろう。 黒いドレス。 床まで届く長い黒髪。 赤い瞳だけが、夜の中で静かに揺れている。 背は高く。 その姿は、まるで影そのものだった。 「こんばんは。」 優しい声だった。 姉が妹へ話しかけるような。 包み込むような柔らかさ。 なのに。 背筋が凍る。 本能が叫んでいた。 逃げろ、と。 「だ……誰ですか。」 女性は微笑む。 「私は紫苑。朱桜紫苑。」 その笑顔は、美しかった。 けれど。 そこには温度がない。 「あなたを迎えに来ました。」 「……迎え?」 「ええ。」 彼女は部屋を見渡す。 「人が壊れる瞬間って、とても綺麗なんですよ。」 まるで花の話でもするように。 穏やかな口調で言う。 「希望が絶望へ変わる、その一瞬。」 赤い瞳が細められる。 「私は、それが大好きなんです。」 足が動かない。 恐怖で。 身体が言うことを聞かない。 「あなたは、もうすぐ壊れます。」 紫苑はゆっくりと私へ近づく。 「だから、観察しに来ました。」 その頃。 四菱インダストリアル・グループ。 ウェスタンの机には、一枚の書類が置かれていた。 社員所在不明報告 名前。 メガドラ。 連絡不能。 自宅にも不在。 監視カメラの映像も途中で途切れている。 紙を握る手へ力が入る。 静かな部屋。 誰も話しかけられない。 ウェスタンはゆっくり立ち上がった。 「……見つける。」 誰に向けた言葉でもなかった。 「誰が連れていった。」 低い声が漏れる。 普段の穏やかな表情は消えていた。 「返してもらう。」 机の角へ手を置く。 その手が震えている。 怒りなのか。 焦りなのか。 それとも。 もっと別の感情なのか。 彼自身にも分からなかった。 ただ一つだけ。 胸の奥ではっきりと理解してしまう。 「メガドラがいない。」 その事実だけで。 世界から色が消えていく。 窓の外では、夜の街がいつも通り光っていた。 誰も知らない。 街角の信号機。 自動販売機。 ビルの監視カメラ。 広告看板。 その無数の「目」が、すべてΛ-systemの観測網へ繋がっていることを。 そして、その巨大な監視網の中心で。 朱桜紫苑は静かに微笑んでいた。 「さあ。」 「あなたは、どんな顔で壊れるのでしょうね。」 その優しい囁きだけが。 静かな闇の中へ、ゆっくりと溶けていった。 https://scratch.mit.edu/projects/1351039385/