第五章 逃げ道は、最初から一本しかなかった ――優しさは、選択肢を減らす形でも現れる。 それに気づいた時にはもう遅い。 目が覚めた時、天井が知らないものだった。 白い。 でも自分の部屋の白さではない。 空気が違う。 乾いていて、管理された匂いがする。 「……どこ。」 声が出る。 喉がひどく渇いている。 頭がひどく痛い。 記憶が曖昧だ。 「社内の医療棟だ。」 すぐ横から声がした。 ウェスタンだった。 椅子に座っている。 いつもと同じ姿勢。 いつもと同じ声。 なのに、その目だけが違って見えた。 「勝手に運んだ。」 「……え?」 「辺境の公園で倒れてるところを見つけた。」 「6日ほど、魘されていた。」 淡々とした説明。 けれど、その奥に張りつめたものがある。 「外に置いておけなかった。」 私はゆっくり身体を起こそうとする。 手が止められる。 「動くな。」 優しい。 でも拒否権がない声だった。 「君は限界を超えてる。」 「……仕事が。」 「仕事じゃない。」 一瞬、沈黙。 ウェスタンは視線を落とした。 「君を壊す環境だ。」 その言葉に、胸が小さく跳ねる。 壊す。 そんな大げさな。 そう思いたいのに。 否定できない自分がいる。 数時間後。 私は病室のような部屋で座っていた。 外には出られないわけじゃない。 でも、出ようという気力がない。 ドアの前には社員証認証の端末。 窓の外には高層ビル群。 ここは会社の中枢にある隔離フロアだった。 「メガドラ。」 ウェスタンがコーヒーを置く。 「話がある。」 「……仕事のことですか。」 「人生のことだ。」 冗談みたいな言い方だった。 でも、笑えない。 「君は断れない。」 「……はい。」 「頼られると潰れるまでやる。」 「……はい。」 「限界でも気づかない。」 私は黙る。 その通りだった。 否定できない。 ウェスタンは少しだけ目を細める。 「だから俺が決める。」 その一言に、空気が変わった。 「決めるって……。」 「環境を。」 窓の外を指す。 「四菱は終わりだ。」 「え?」 「Λ-systemの件も含めて、もう内部は崩れてる。」 その言葉に背筋が冷える。 朱桜紫苑。 あの名前が頭をよぎる。 「このままここにいたら、君は本当に壊れる。」 ウェスタンは静かに言う。 「だから移る。」 「どこに。」 一拍。 「TeraBalance Corporation。」 心臓が止まった気がした。 数日後。 書類が机に積まれていた。 転職手続き。 契約。 守秘義務。 再配置計画。 全部がすでに“決まっている形”で並んでいる。 私はそれを見つめる。 「……いつの間に。」 「昨日。」 ウェスタンは平然と言う。 「もう承認は通した。」 「私の意思は。」 「聞いた。」 短い間。 「それでもだ。」 その言葉は静かだった。 押し付けでも、怒りでもない。 ただ事実としてそこにある。 「君は今、選べない状態だ。」 「だから代わりに選んだ。」 私は書類を握る。 指が震えている。 怖いのか。 怒っているのか。 それとも安心しているのか。 分からない。 夜。 ビルの外に出ると、空気が変わった。 四菱の巨大な本社ビルが背後に沈んでいく。 その上空。 監視カメラの赤い光が一瞬だけ瞬いた。 そのどこかで。 朱桜紫苑が、静かにこちらを見ている気がした。 ――まだ観測は終わっていない。 そんな気配だけが残る。 「行くぞ。」 ウェスタンが隣を歩く。 距離が近い。 でも触れない。 触れられない距離。 「……本当にいいんですか。」 私が問うと、ウェスタンは少しだけ間を置いた。 「いいかどうかじゃない。」 「必要かどうかだ。」 その言葉は冷たいはずなのに。 なぜか、ひどく温かく聞こえた。 TeraBalance Corporation。 巨大なビル群。 整然としたセキュリティ。 静かな秩序。 そこは四菱とは違う空気だった。 管理されているのに、息ができる空間。 依月が待っていた。 「えへぇ〜……本当に来ちゃったんですねぇ。」 その笑顔は、少しだけ驚いていた。 でもすぐに、いつもの柔らかさに戻る。 「よかったです。」 「本当に。」 その声は、救いのようだった。 その背後で。 ウェスタンは静かにメガドラを見ていた。 その視線は、優しい。 けれど。 どこかで線が引かれている。 「これでいい。」 誰にも聞こえない声。 「もう、誰にも触らせない。」 街のどこかで。 朱桜紫苑が微笑む。 「ふふ……面白くなってきた。」 世界はまだ終わっていない。 ただ。 少しずつ、形を変えているだけだった。 第六章 静かな日常は、壊れ方を忘れさせる ――人は、平穏の中で初めて、自分が壊れていたことに気づく。 朝。 TeraBalance Corporationのオフィスは、四菱とはまるで違っていた。 静かで、整っていて、過剰な緊張がない。 キーボードの音も一定。 誰かのため息も、怒鳴り声もない。 ただ仕事が、淡々と進んでいく。 「おはようございます、メガドラさん。」 「えへぇ〜、今日も早いですねぇ。」 依月の声がする。 その瞬間だけ、空気が柔らかくなる。 私は少しだけ笑う。 「うん……慣れてきたかも。」 「よかったですぅ。」 依月はいつものように微笑んでいる。 でもその目は、以前より少しだけ安心しているように見えた。 ウェスタンは、相変わらずだった。 必要以上に干渉しない。 けれど、必要な距離は必ず近い。 「これ、今日の案件。」 「ありがとうございます。」 「無理そうなら言え。」 それだけ。 それだけなのに。 私は不思議と、息がしやすかった。 四菱では「期待」だったものが。 ここでは「確認」に変わっている。 昼休み。 依月と並んで食堂へ行く。 「うへぇ〜、顔色すごく良くなりましたねぇ。」 「そう?」 「はい。猫耳もちゃんと起きてますし。」 「……それ関係ある?」 依月はくすくす笑う。 その笑い声が、少しだけ世界を軽くする。 「ここ、合ってるんですねぇ。」 「うん……たぶん。」 私は窓の外を見る。 ガラス越しの空は青い。 何も起きない空。 それが、こんなに静かだなんて知らなかった。 その日の夕方。 セキュリティゲート付近。 空気が一瞬だけ変わった。 温度ではない。 音でもない。 「……メガドラちゃん。」 背後から呼ばれる。 振り返る。 そこにいたのは、黒いドレスの女。 朱桜紫苑だった。 変わらない。 私が倒れてから見た景色と同じ。 記憶が揺らいだ。 穏やかな微笑み。 しかし、周囲の空気だけが微かに歪んでいる。 「転職、おめでとうございます。」 「……あなたは。」 声が詰まる。 本能が警告する。 近づいてはいけない、と。 紫苑はゆっくり歩く。 まるで散歩のように。 「ここはいい場所ですね。」 「管理が行き届いていて。」 「人の壊れ方も、少しだけ遅い。」 その言葉に、背筋が冷える。 「あなた、何を……。」 「観測ですよ。」 当然のように言う。 「あなたの変化を見ています。」 紫苑の赤い瞳が細くなる。 「四菱の時より、少し“人間らしい”顔をするようになりましたね。」 「それは……良いことですか。」 「ええ。」 優しい声。 「とても。」 その瞬間だった。 空気が揺れた。 「やめろ。」 低い声。 ウェスタンだった。 紫苑の前に立つ。 距離は一歩。 しかし、その一歩が境界線になる。 「ここはTeraBalanceだ。」 「職員への不正接触は許可されていない。」 紫苑は微笑んだまま、首をかしげる。 「あら。」 「あなたが彼の“管理者”ですか?」 「違う。」 即答。 「守っているだけだ。」 その言葉に、紫苑は一瞬だけ目を細めた。 「……面白いですね。」 「人は、守ると言いながら一番強く縛る。」 ウェスタンの手が動く。 それは攻撃ではない。 ただ、紫苑の視界からメガドラを遮る動きだった。 「帰れ。」 静かな命令。 しかし、その声には揺らぎがない。 紫苑はしばらく二人を見つめていたが。 やがて、ふっと笑う。 「今日はここまでにしましょう。」 「でも。」 「また来ます。」 その言葉だけ残して。 影のように消えた。 沈黙。 夜風だけが残る。 私は立ち尽くしていた。 「……今の。」 「気にするな。」 ウェスタンは振り返る。 いつもの表情。 でも、少しだけ息が乱れている。 「もう大丈夫だ。」 そう言って。 私の方を見た。 その目は、いつもより近い。 「怪我は?」 「ないです。」 「そうか。」 短い沈黙。 そして。 ウェスタンは小さく言った。 「ここでは、君を失わない。」 その言葉は、命令でもなく、説明でもなく。 ただの本音だった。 その夜。 私は自分の席で資料を見ながら、何度もその言葉を思い出していた。 「失わない」 それは安心の言葉なのに。 なぜか胸が締めつけられる。 守られている。 そう思う。 でも。 その“守られる”という状態を、私は少しずつ好きになっていた。 気づけば、猫耳が静かに下がっている。 私は小さく呟いた。 「……ずるい。」 誰に向けたのか分からない声だった。 ただ一つだけ。 確かに分かることがあった。 私はもう。 この場所と、この人のことを。 「安心」と呼んでしまっている。 そしてそれが、少し怖くて。 少しだけ嬉しかった。
第七章 幸福は、観測され続ける ――人は幸せになった瞬間から、それが本物かどうか疑い始める。 書類には、淡々とした文字が並んでいた。 婚姻届。 社内規定承認済。 TeraBalance Corporation特別人事処理。 そして、ウェスタンの署名。 私の名前も、その横にある。 「これで正式だ。」 ウェスタンはいつも通りの声で言った。 「仕事も、住居も、全部ここに統合される。」 「……うん。」 私は小さく頷く。 実感は、まだ薄い。 でも、指先に触れる紙の重さだけが現実だった。 新しい部屋は静かだった。 TeraBalanceの高層居住区。 窓からは都市の光が遠くまで見える。 私はソファに座り、猫耳を軽く揺らす。 「落ち着かないか。」 ウェスタンがコーヒーを置く。 「少し。」 「慣れる。」 その言葉は短い。 けれど、押し付けではない。 ただの予測だった。 夜。 二人で夕食をとる。 料理は簡単なものだったけれど、不思議とおいしかった。 「こういうの、初めてかも。」 私がそう言うと、ウェスタンは少しだけ目を細める。 「今までが多すぎただけだ。」 「……そうかな。」 「そうだ。」 即答。 少しだけ笑ってしまう。 その笑いが、自分の中から自然に出てきたことに驚く。 夜が深くなる。 部屋の照明は落とされ、窓の外の都市だけが光っている。 私はベッドに横になり、天井を見る。 隣にはウェスタンがいる。 距離は近い。 でも、触れない。 触れようと思えば触れられる距離。 「メガドラ。」 「なに。」 「もう無理はしなくていい。」 その声は、いつもと同じだった。 けれど今は、少しだけ違って聞こえる。 私は小さく息を吐く。 「……うん。」 それだけで十分だった。 そのまま堕ちる。 深く、静かに。 何も壊れない夜。 ――夢の中だったのかもしれない。 黒いドレス。 長い黒髪。 赤い瞳。 朱桜紫苑が、遠くに立っている。 何も言わない。 ただ見ている。 観測するように。 評価するように。 「……なんで。」 声は出ない。 紫苑は微笑む。 優しい、お姉さんのような微笑み。 けれどその目だけが、何も変わらない。 次に目を開けた時。 朝だった。 隣にウェスタンがいる。 姿を見るにどうやら私達はしてしまったようだ。 眠っている横顔は、静かで穏やかだった。 私はその顔を見て、小さく息を吐く。 「……結婚、したんだよね。」 自分に確認するように。 日常は、穏やかに続く。 仕事。 帰宅。 食事。 会話。 時々、ウェスタンは私の髪に触れる。 それは優しくて、怖くない。 そのはずだった。 ある日。 ふとした瞬間。 コピー機の音の中で。 私は一瞬だけ、背後を振り返る。 誰もいない。 何もない。 なのに。 赤い瞳が、どこかでこちらを見ている気がした。 夜。 ベッドの中。 ウェスタンが静かに言う。 「ここでいいか。」 「うん。」 短い返事。 そのまま沈黙。 温度はある。 安心もある。 なのに。 心のどこかが、微かにざわついている。 ――私は、幸せなのだろうか。 ――それとも、そう思わされているだけだろうか。 窓の外。 都市の光が揺れる。 そのさらに外側。 誰も見ていないはずの監視網の奥で。 朱桜紫苑は、静かにモニターを見つめていた。 「ふふ……」 小さな笑い。 優しい声。 「ちゃんと壊れずに壊れていますね。」 赤い瞳が細くなる。 「でも。」 「まだ終わっていませんよ。」 画面の中のメガドラは、ウェスタンの隣で眠っている。 穏やかに。 静かに。 幸福の形をして。 私は目を閉じる。 胸の奥で、小さな声がする。 ――どこかで、何かを見た気がする。 ――あの赤い瞳は、本当に夢だったのか。 答えは出ない。 ただ一つだけ確かなのは。 この世界は、まだ誰かに見られているということだった。 そして私はそのまま。 もう一度、眠りに落ちた。 終わりとも、始まりとも分からないまま。