## 1.青山市 世界は、灰色をしていた。 曇天。ひび割れたアスファルト。崩れた外壁。倒れた信号機。割れたガラス片が、雨も降っていないのに濡れたような光を返している。 だが、この街は死んでいるわけではない。 死にきれずに、まだ呻いていた。 遠くで何かが爆ぜる音がした。腹の奥まで響く低い爆発音。遅れて、黒い煙がビルの陰から立ち上る。 消防車のサイレン。誰かの悲鳴。怒号。銃声。全部が混ざり合って、ただ一つの巨大な雑音になっていた。 そんな灰色の街の中で、赤だけがやけに鮮やかだった。 燃え盛る炎の赤。 道路に広がる血の赤。 誰かの制服に染み込んだ、まだ温かい赤。 その赤の向こうに、人影が立っていた。 よく知っている背中だった。 何度も隣を歩いた。何度もくだらない話をした。何度も笑った。 なのに、その人影は振り返らない。 振り返ってくれない。 右手に握った拳銃が、異様に重かった。 指が震える。息ができない。喉の奥が焼ける。 やめろ。 そう言いたかった。 でも、声は出なかった。 その背中が、ゆっくりとこちらを向く。 火の粉が舞う。赤い光の中で、その人物が笑った。 まるで、この選択を最初から知っていたみたいに。 「――撃てよ」 銃声が、世界を裂いた。 ◇ 「……で、根津くん」 「はいっ」 「その書類、上下逆」 「はい?」 根津兎は、机の上に置いた報告書を見下ろした。確かに逆だった。 文字が読みにくいなとは思っていたが、まさか紙の方が間違っていたとは。いや、間違っていたのは完全に自分だ。 「すみません。今日の僕、もしかして世界に嫌われてます?」 「世界のせいにしない。根津くんが寝不足なだけ」 黄泉月時雨は、呆れたようにため息をついた。 青山警察署、生活安全課。 午前九時を少し過ぎた署内は、いつも通り騒がしい。電話の呼び出し音。キーボードを叩く音。誰かが資料を落とす音。どこかの課から聞こえる怒鳴り声。 青山市という街は、平和とは言い切れない。 北東の長江町は住宅街が広がり、学校や図書館が並んでいる。北西の宝巻町には工場が多く、朝と夕方は大型車の往来が激しい。中央の青山町は都心部で、青山駅と駅ビルを中心に人が集まる。南東の桜城町はありふれた住宅街だが、事故の多い桜城交差点だけは地元民なら誰もが知っている怪奇スポットだった。 そして南西の木津町。 木津川と木津山を抱えた、青山市で最も自然の濃い地区。山の奥には古い社があり、今でも神を祀っている。 神隠しの街、青山市。 そう呼ばれるようになったのは、いつからだっただろう。 「また出たんですか。失踪」 根津がそう言うと、向かいの席にいた久野修斗が顔を上げた。 根津より一つ上の先輩。感情の起伏が薄く、誰に対しても丁寧語を崩さない男だった。 「南部です。木津町付近で一件。十七歳の男子高校生が、昨日の夜から帰宅していないそうです」 「十七歳……」 根津は眉を寄せた。 こういう数字は嫌いだった。 若いから、ではない。 年齢が具体的になると、その人間の輪郭が勝手に浮かぶからだ。学校。友達。家族。明日の予定。買ったばかりのイヤホン。読みかけの漫画。くだらない約束。 そういうものを全部置き去りにして、人は急に消える。 青山市では、それが珍しくなかった。 「また“およばれさん”ですかね」 根津が軽く言うと、黄泉月がじろりと目を向けた。 「警察官が都市伝説を口にしない」 「でも市民の皆さん、だいたいそう言いますよ。『あの子はおよばれさんに連れて行かれたんだ』って」 「だから私たちが現実的に捜査するの」 「はい。黄泉月さん、正論で殴るのやめてください。痛いです」 「殴ってない」 「心が」 黄泉月はもう一度ため息をついた。 けれど、その目は冷たくない。 根津は彼女のそういうところが好きだった。厳しい。よく怒る。だが、見捨てない。 警察官としても、人としても、根津は黄泉月時雨を信頼していた。 「およばれさん、ですか」 久野がぽつりと言った。 「青山市の南部で失踪事件が多いのは事実です。桜城町、木津町。特に木津山周辺。昔から噂が絶えません」 「久野さんまで都市伝説側に?」 「いえ。事実を述べただけです」 「その淡々とした言い方、逆に怖いんですよ」 根津は笑ってみせる。 笑えば、場の空気は少し軽くなる。 笑っていれば、大抵のものはごまかせる。 疲労も。 不安も。 夢に出てくる銃声も。 「根津くん」 黄泉月が、少しだけ声を落とした。 「顔色、悪いよ」 「え、そうですか?」 「また眠れてない?」 「あー……まあ、ちょっとだけ。大丈夫です。僕、寝なくてもそこそこ動けるタイプなので」 「そういう人から倒れる」 「黄泉月さん、お母さんみたいですね」 「誰がお母さん」 「すみません、上司でした」 軽口を叩きながら、根津は手元のペンを回した。 ペン先が机に落ちる。 小さな音。 それなのに、胸の奥が跳ねた。 一瞬、銃声に聞こえた。 視界の端に、炎の赤がちらつく。 喉が詰まる。 「……根津さん?」 久野の声で、意識が戻った。 署内の白い蛍光灯。積まれた書類。古いコーヒーメーカーの匂い。黄泉月の心配そうな目。 ここは警察署だ。 青山市はいつも通り曇っている。 炎なんて、どこにもない。 「すみません。ちょっとぼーっとしてました」 「本当に休んだ方がいいんじゃない?」 「大丈夫ですって。僕から元気を取ったら、ただの根津になります」 「元気があっても根津くんは根津くんでしょ」 「確かに」 笑う。 笑えた。 なら、まだ大丈夫だ。 その時、内線が鳴った。 黄泉月が受話器を取る。 「はい、生活安全課。……はい。……木津町の件ですね。分かりました。久野、出られる?」 「はい」 久野はすぐに立ち上がった。 無駄のない動作だった。机の引き出しから手帳を取り、上着を羽織る。 「失踪の現場ですか?」 「そう。家族から追加の情報が来たみたい。最後に目撃されたのは木津川沿い。久野、確認お願い」 「承知しました」 根津も反射的に立ち上がりかけた。 だが、その足は止まった。 本来なら、自分も行くべきなのだが、今日は、違う。 胸の奥に、嫌な重さがあった。 予感ではない。 根津は知っていた。 今日、青山町で何かが起きる。 青山町でもっとも人の往来が多い都心で。 だから木津町には行けない。いや、行かない。 「根津さんは?」 久野が振り返った。 その目に、疑いはない。ただ確認しただけだ。 根津は笑顔を作る。 「僕は、こっちの書類片付けてから合流します。黄泉月さんに怒られるので」 「根津くん」 「いやほんとに。これ以上ためると、僕の机が地層になります」 黄泉月は何か言いたげだったが、結局うなずいた。 「分かった。久野、先にお願い」 「はい。では」 久野が署を出ていく。 その背中を、根津は見送った。 その傍らで、机の上のスマホが震えた。 非通知。 根津は画面を見下ろした。心臓が、一度だけ強く鳴る。 「……根津くん?」 黄泉月の声がした。 根津はスマホを手に取る。 出るべきではない。そう思った。 けれど、指は通話ボタンに触れていた。 『青山駅東口。応援要請。至急』 機械的な声だった。 男か女かも分からない。 たったそれだけ告げて、通話は切れた。 数秒遅れて、署内がざわめいた。 別の電話が鳴る。誰かが叫ぶ。 「青山駅方面で騒ぎだ!」 「爆発音があったって通報!」 「人が倒れてるって――」 空気が変わった。 日常が、剥がれ落ちる音がした。 黄泉月が立ち上がる。 「根津くん!」 「行きます!」 返事は早かった。 まるで、最初からその瞬間を待っていたみたいに。 根津は拳銃を確認し、署を飛び出した。 外は曇っていた。 青山市の空は、いつも重い。 だがその日の空は、いつもより低く見えた。 街全体を押し潰すみたいに、灰色の雲が広がっている。 青山駅へ向かうパトカーの中で、根津は膝の上の拳を握った。 「……誉」 誰にも聞こえない声で、根津はその名前を呼んだ。 親友の名前を。 その瞬間。 前方で、赤い光が弾けた。 爆発。 衝撃。 フロントガラスにひびが走る。 かと思った刹那、世界が傾く。 どうも頭を打ったらしい。視界が赤く染まっていく。 ◇ 根津兎は、仰向けに倒れていた。 背中に硬い感触。アスファルト。鼻をつく焦げ臭さはない。血の匂いもしない。代わりに、湿った空気が肺に入ってくる。 薄い霧が出ていた。 街灯は消えている。 空は曇天。 けれど、さっきまで聞こえていたサイレンも、怒号も、爆発音もなかった。 それどころか、乗っていたパトカーも、ひび割れた窓も見当たらない。 自分の血液さえも。 静かすぎる。 青山市が、こんなに静かなはずがない。 「……ここ、長江町?」 根津はゆっくり身を起こした。 見覚えのある住宅街だった。古びた電柱。狭い路地。シャッターの閉まった商店。遠くに西長江中学校の校舎が見える。 だが、人がいない。 車も走っていない。 犬の鳴き声すらしない。 街だけがあって、生活が抜き取られている。 ふと、胸元に違和感を感じて、手を伸ばす。 拳銃が入っていた。警察官として支給されているものとは違う。無骨で、嫌に現実味のある重さ。 そして左手にはスマホ。自分のものだ。 だが画面には、見覚えのないアプリが表示されていた。 黒い背景。白い文字。 タイトルはひらがなで、幼稚なほど簡単に書かれていた。 『げぇむ』 「……悪趣味」 根津が呟いた瞬間、スマホが勝手に震えた。 画面が切り替わる。 『ようこそ』 『あなたは、選ばれました』 『これより、青山市全域を舞台とした、四チーム対抗戦を開始します』 文字が一行ずつ流れる。 根津は息を止めた。 『参加者は八十名』 『各チーム二十名』 『勝利条件は、他チームの全滅、または最終条件の達成』 『参加者には、それぞれ一つずつ異能が与えられています』 『能力を確認してください』 画面の中央に、根津の名前が表示された。 『根津 兎』 『所属:チームA』 『異能:喪失』 「喪失……?」 意味が分からない。 説明文を開こうとしたが、何も表示されなかった。 空欄。 まるで、お前には何もないと言われているみたいだった。 根津は笑おうとした。 こういう時こそ、笑った方がいい。 いつものように軽口を叩けばいい。 だが、声は出なかった。 スマホの表示が、さらに切り替わる。 『このゲームでは、死亡した参加者は脱落となります』 『脱落者は二度と復帰できません』 『生き残ってください』 『では、よい一日を』 根津は立ち上がった。 足が震えている。 それでも、拳銃を握った。 警察官だから。 そう思おうとした。 けれど、本当は違う。 この街が何なのか。 なぜ自分がここにいるのか。 さっきまで何が起きていたのか。 分からない。 思い出せない。 頭の中に、霧がかかっている。 ただ一つだけ、鮮明に残っているものがあった。 赤い炎の中で笑う、親友の顔。 そして。 自分の指が、引き金を引いた感触。 「……なんだよ、これ」 根津兎は、灰色の青山市で呟いた。 その問いに誰かが答えることはない。 霧だけが、静かに街を満たしていた。
元々はアニメで作ってたんですけど 制作に時間をかけてる間に登場予定のキャラクターの コラボシートが複数消えて設定が分からなくなり、 変更の必要があるという事態が発生したため、 文を書く練習も兼ねて小説として描き直します。 一部キャラクターはそのまま流用するので、 そういったキャラクターが登場する回はクレジット書きます 【登場人物】 @nezuu 様「根津 兎」(ねず う) @51or52 様「久野 修斗」(くの しゅうと) 黄泉月 時雨(よみづき しぐれ)