旗を押してみよう! ある日の朝、まだ朝と呼ぶには少し早く、しかし昨日と呼ぶには明らかに遅い時間に、青いような青くないような空を見上げていたら、遠くのほうから、近くではない感じの音が聞こえてきた。その音が何だったのかについては、今となっては誰にも分からないし、当時の私にも分からなかったので、結局のところ分からないままなのだが、分からないということ自体が分かったという意味では、完全に何も分からなかったわけではないのかもしれない。 そこで私は、そこにあった机について考え始めた。机には四本の脚があり、四本あるということは三本ではないということで、三本ではないということは二本でも一本でも五本でもないということである。しかし、もし机の脚が五本あったなら、それはそれで机として成立する可能性があるし、逆に脚が一本しかなくても、それを机と呼ぶ人が一人でもいれば、少なくともその人にとっては机なのかもしれない。そう考えると、机とは何なのかという問いが突然大きくなり、部屋の隅に置かれた小さな椅子まで、なぜか重要そうな顔をしているように見えてきた。 椅子は何も言わなかった。もちろん椅子が話すとは最初から思っていなかったので、話さなかったことについて特に驚く理由もなかった。ただ、もし椅子が突然「今日は少し暑いですね」と言ったとしても、私はたぶん「そうですね」と答えていただろうし、その場合、会話が成立したのかどうかについては、かなり難しい問題になる。そもそも暑いという感覚を椅子が持っているのか、椅子に温度という概念があるのか、あるいは「今日」という言葉を理解しているのか、それ以前に椅子が椅子として存在しているという事実を椅子自身が認識しているのか、そのあたりは非常に曖昧である。 窓の外では、風が吹いていたような気がした。実際に吹いていたのかもしれないし、木の葉が風ではなく別の理由で揺れていたのかもしれない。葉っぱが揺れる理由には風以外にもいろいろあるだろうし、そもそも揺れているように見えただけで、世界全体がほんの少し動いていた可能性も否定できない。世界が動いているときに、自分だけが動いていないと思うことは、よく考えるとかなり不思議なことである。 そのことを考えているうちに、私はパンのことを思い出した。パンは丸いものもあれば四角いものもあり、細長いものもある。細長いパンが長いのか、短いパンが短いのか、それを決める基準はパンそのものには存在しない。パンが自分で「私は長いパンです」と名乗ったとしても、別のパンと並べてみれば短いかもしれない。つまり長いということは、長いだけでは長くなく、何かと比べることによって初めて長くなる。しかし、何と比べるかによって結果が変わるなら、長さというものは案外信用できない。 そうこうしているうちに、時計の針が少し進んだ。時計の針が進んだのか、それとも私たちのほうが時計の針を追い越してしまったのかは分からないが、とにかく数字は変わっていた。数字は変わっていたが、数字そのものは数字なので、7が突然8になったわけではなく、7の次に8が来るという決まりに従って、8が表示されただけである。ところが、もし8の次が7になる世界だったら、今とはまったく違う時間の流れになっていたかもしれない。そんな世界で「昨日」と「明日」がどうなるのかは考えても仕方がないので、考えないことにした。 考えないことにしたのに、なぜか考えてしまった。 それからしばらくして、私は立ち上がった。立ち上がった理由は特になかった。座っていたから立っただけであり、立ったからといって何かをする必要があるわけでもなかった。立つという行為には、目的がある場合もあれば、目的がない場合もある。目的がない行動が存在するなら、目的とはそもそも何なのだろう。目的が目的であるためには、それを目的だと認識する誰かが必要なのか。それとも、誰も知らなくても目的は目的として存在できるのか。 答えは出なかった。 答えが出なかったので、私は冷蔵庫を開けた。 冷蔵庫の中には何もなかったような気がしたが、よく見ると何かがあり、しかしそれが何だったのかは思い出せなかった。白い容器だったかもしれないし、透明な容器だったかもしれない。透明な容器なら中身が見えるはずだが、中身が見えたからといって、それが何なのか分かるとは限らない。見えることと分かることは同じではなく、分かることと理解することも同じではない。そして理解したからといって、それが重要であるとも限らない。 だから私は冷蔵庫を閉めた。 閉めた瞬間、何かを忘れた気がした。 何を忘れたのかを考えたが、考えれば考えるほど、忘れたものではなく、忘れたという感覚だけが大きくなっていった。感覚は形を持たないので、形のないものを探すために形のある場所を探しても意味がないように思えた。それでも机の下を見た。何もなかった。椅子の後ろも見た。何もなかった。窓の外も見た。何かあったような気がしたが、それが何だったのかは分からなかった。 結局、その日は何も起こらなかった。 しかし、何も起こらなかったという出来事が起こったのだとすれば、それは本当に何も起こらなかったと言えるのだろうか。何も起こらないという状態そのものが、一つの出来事なのではないか。もしそうなら、何も起こらない日は存在しないことになる。存在しないものについて考えることはできるが、考えられるからといって存在するわけではない。では、存在するとは何なのか。 その答えを探すために、私はまた机を見た。 机は何も答えなかった。 椅子も何も答えなかった。 時計も答えなかった。 パンもなかった。 そして、なぜパンが突然なくなったのかについては、最後まで誰にも分からなかった。 文章制作 chatgpt様 技術参考 @E-503様